教養とか大事。

私は外国語として日本語を勉強する人たちに日本語を教えていたりするわけですが、その人たちにとってはちょっと難しすぎていらないんじゃない?っていう種類の言葉を使ったり教えたりしたりしちゃいます。つまり、日常会話に使わない種類の言葉ね。当該のとか、相似性とか、世界に冠たるとか、そういうの。今、冠たるって一発変換できなかったけど、なんでかな、間違ってんのかな。身の回りの先生で、そういう言葉を知らない聞いたことないっていう人がいらして、その先生はそんな日常使わない言葉なんていらねーって思ってんのかなと思ったら、じゃあ、その先生じゃない人、つまり私は、そういう難しい言葉を使う担当なんだろうと思った次第です。日常使わないからといって、その言葉が滅びたわけじゃないです。自分が知らないからといって、その言葉が世界から消えてしまったわけでもないです。誰かがどこかで自分に対して使うかもしれません。そしてそれは大事な場面であるかもしれません。違うかもしれません。一生聞く機会がないかもしれません。でもあるかもしれないんです。絶対なんてない、だったら知ってて困ることなんていっこもないんじゃないか、そう思っています。もちろん、読んだり聞いたり、誰かが自分に対して難しい言葉を使ってきた時、わからなければ調べればいいんです。私たちの身近には辞書もスマホもあります。目の前の箱で調べてもいいです。もちろん、相手に聞いたっていいんです。知らなければ聞けばいいし調べればいい、でも知っていれば聞かなくていいし調べなくていい、どっちでもいいんです。今私の身の回りにいる学生は、複数人の日本人の先生に接する機会があります。そのすべての先生が簡単な言葉だけ使って難しい言葉は覚える必要なしって、言わなくていいでしょう? いろんな先生がいて、いろんなことをそれぞれ考えて、いろんなことを教えて、それが、学生がいろんな人と接する機会になればいいです。だからさ、難しい言葉使っても、それは意図があってやってることなんだよ。一応。って、学生に話してみたら、神妙な顔して聞いてた可愛い。っていうかさ、先生の癖に、教養を否定するようなこと言っちゃいかんでしょう、って最近思う機会があったから、こんなこと考えたんですけどさ。いや、意図としては前からなくもなかったけど、改めて言語化する機会になりまみた。