映画『大奥』の続き。

昨日の日記では偉そうに上段に振りかぶった感じでしたが、あれは、言い訳です。じゃなくて、自分に言い聞かせる発言です。でした。
つまり、『大奥』微妙だったわけです。期待値が低かったので、それほどダメージを受けたわけではなかったですが、つまりある意味予想を裏切らないできだったわけですが、それでもやっぱり、微妙な気持ちで帰路につきました。同行の女子のみなさんが楽しそうであったので、それもまた。いいの、それで、って。や、キャストの顔ぶれが気に入ってれば、問題なく楽しいのかも知れません、許容範囲の狭い自分が可哀想です。でも、昨日の日記で書いたように、大概のことなら自分を誤魔化せます。許せなかったのは、一箇所だけ。水野が幼馴染の信に、「お望みとあらば抱いてやってもかまわねえんだぜ、幼馴染どの。」っていう台詞です。ささやき声とか多分せくしーみたいなのがキモいとかいう話ではありません。当該の場面、原作では「お望みとあらば抱かれてやってもかまわねえんだぜ、幼馴染どの。」です。
そもそも『大奥』とは、風土病によって男性の人数が女性の四分の一程に減った江戸時代を描いたシミュレーション的なマンガです。家光の時代に疫病が流行り始め、うっかり家光まで死んでしまったので唯一の血筋である姫が徳川家と家光という名前を継ぎ、家綱綱吉家宣家継吉宗と代々女性が継ぐシステムを構築してしまい、現在我々が想起する江戸時代とは男女の性役割が逆転してしまう、という話です。いろいろな特徴をさくっと全部こっちの棚に置いておいて男女におけるセックスの(呼称における)主導権的な何かの話だけしますと、「女性が男性を抱く」という表現が使われております。家光が、硬質な感じで、「お前が私を抱くのではない、私がお前を抱くのだ」と言い放ちます。綱吉は晩年「何故あの時私に抱かれて、いや、私を抱いてくれなかったのだ」と泣き崩れます。家光の時代にはまだ男性にセックスの主導権的な何かがあり、家光はそれを強く否定します(いろいろあって、自身のアイデンティティとか尊厳とかが危機に瀕してたから)。で、綱吉の時代にはもう完全に女性にセックスの主導権的な何かが移っている、みたいな感じです。でも、今よく考えたら、実際の性行為は現代の性行為とかわんないように見えます。
えーと、『家畜人ヤプー』とかだと、性行為は女性上位(騎乗位ってやつ)で行われ、呼称における行為の主体みたいなのは女性であると言及があります(確かそう)。でも、『大奥』の場合、体位はいろいろみたいで(正常位的なのも女性上位的なのも描かれてる)、呼称における行為の主体とされるのが女性になっていく、みたいな感じ。えと、例えば、今私たちが想起する江戸時代の花魁、あれは髪が崩れたら困るから女性上位(騎乗位)で性行為が行われることがあるけど、セックスっていう呼称における行為の主体は男性にある、のと同じ、みたいな。セックスに至る道筋の話じゃなくて、セックスの話。んー、だからもしかしたら「主導権」という言葉は不適切かもしれませんが、概念として? 
吉宗の時代にはもう男女の性役割はだいたい逆転が完了してます。働くのは女性。子どもを作るために買われたりもらわれたりするのは男性。力仕事も女性。着飾るのは男性。歌舞伎役者は女性。性産業に従事するのは男性。生活の必要上から同性どうしで一緒に住むのは女性どうし。貞操が問われたり問われなかったりして幸せな結婚をして子どもをたくさん作るのは男性。女性が男性に性行為を求める時は抱いてじゃなくて抱かせてって迫るのです。頼んで性行為に持ち込んだ時は抱かせてもらったっていうのです。
ここまでは事実の確認みたいなもので、ここからは完全に私の個人的な想像と好き嫌いの話になるんですけど。この、抱く抱かれるっていう、呼称における行為の主導権みたいなもんを女性が持ってるとしてですね、その所在が異性に移る時って、奪い取るじゃなくて差し出す方が変態度が低いんじゃないかな、と。どうかな、そうでもないかな、そうでもないか。私としては、その主導権的な何かを奪い取る構図が気持ち悪くて仕方なかったわけです。その時代に合うように生きてあとセックスしてる水野がいきなりなんだその変貌、キモっ、と。その台詞だけ浮いてんですよ。あ、そうか、ここで、好きな相手には主体的であり主導権を握る美形カコイイってならないから私はモテないんだな(関係ない)。でも、それって、現実の現代に生きてる男子を見る感覚だよね。その時私が見てたのは現実の現代じゃなくてシミュレーション上の江戸時代なわけですよ。その設定に合うように喋ってもらわないといやなのよ。セックスにおける主導権を握っている者の許可もなくその主導権を奪い取る発言とか気持ち悪い。
それに、信(将軍じゃない方)の主体性を軽視してるように見えてそれもキモい。シミュレーション上の江戸時代に生きてる女性であるにも関わらず、現代の女子のように、気の強い女の子が意中の人の前では可愛い、って疑問も葛藤もなく表象しました、的な。その気の強い女の子が意中の人の前では可愛いっていうキャラ設定自体、安易につかわれると女性の主体性とかを軽視したキャラ設定に思えるっていうか、じじい勝手に決めてんじゃねぇってうっかり思っちゃうっていうか。いや、作り手の男女関係なく、概念としてじじい。いや、普段そんなこと考えながら生きてるわけじゃないんだけど、たまにこういうの見ると許せない気分になってしまうのでした。うまくまとまらないけど、今日はこの辺で。