映画『インシテミル』。

めっちゃホラー映画でした。人が死ぬからじゃないよ、カメラの動き方とか、音楽の入り方とか、人物の表情とか、照明とか、撮り方やつくりの問題です。ミステリじゃなくなってるとかじゃなくて、ホラー映画でした。エンドロール見てたら、中田秀夫監督で、『リング』の人でした。さもありなん、って、こういう時に使うんでしょうかね。
例えば、ですね。薄暗い部屋に、主人公が椅子に座っていて、さて人死にが出たぞこれからどうする、と考えてるのがアップになってるとしましょう。ふいにカットが変わって、主人公の背後が入るようにちょっと遠くから床の辺から撮った感じに、っていう映像になる瞬間にじゃーんって感じで音が入る、で、背後にはいつ現れたのか女性が無表情で立っている、女性が映るとほぼ同時に主人公が女性に気づいてびっくりする、こういうのが大体一秒くらいで行われるわけです。見てるこっちは、どれでびっくりしたのかもはやわかんない。急にカットが切り替わったことなのか、切り替わった瞬間女性が現れることなのか、急に音が鳴ることなのか、主人公がびくっとしたところなのか、それとも女性が無表情で怖かったからなのか、そもそも画面が暗かったから最初から怖かったのか。こういうところがホラー映画っぽかったです。
舞台もね、クローズドサークル、っていうか、館(やかた)で、狭い、暗い、閉鎖空間、ってか閉じ込められてて出られない、狭い、暗い、廊下が一周なのはいいけどカーブが多すぎて三軒隣のドアはもう見えない、そこを歩いてるものだから、ふいに行く手の壁の陰から人が出てくる、びくっとする、みたいなのとか。
ホラー映画じゃないのにどう見てもホラー映画にしか見えなかったってのは、『エイリアン』の一作目とかもそうでした。どこに潜んでいるかわからない怪物に怯えながら角を曲がる、怪物が出る、じゃーんと音が鳴る、画面のこっちで我々がびくっとする、みたいなの。
これは、緊張と緩和の手法(?)ですよね。見通しのきかない場所で、薄暗い、静か、音楽も静か、映ってる人物がびくびくしてるか警戒してる、っていう段階で観客は緊張している、手に汗を握っているわけですね。で、怪物的な何かがばーんと現れることで、あるいは音楽がじゃーんと鳴ることで、うーん、画面が切り替わることで、そのテンションが一気に解放とかされるわけです。緊張状態から解放されるのがびっくりでありもっと怖い展開ってのが、ホラー映画嫌いな人がいる理由のひとつになっているかもしれませんと今思いました。緊張と緩和ってのは、単純に、家に帰って照明のスイッチを入れるとかでもよろしい。暗くて怖い緊張から解放されるっていう話。
緊張と緩和ってのは、笑いの世界でも同じなのです。『茶漬け閻魔』っていう落語の題目がありますが、閻魔大王っていう恐ろしい存在が登場するということで、観客は若干びびりながら鑑賞に挑むわけです、が、その閻魔大王が茶漬けをすすっている、ずずーっと。閻魔、が、茶漬け、緊張と緩和、で、笑いが誘われるというわけです。っという話を、昔、桂枝雀さんという今は既に亡き落語家さんがなさっておいででした。
インシテミル』は原作とはまるで違うオチが用意されておりまして、原作でわりとかっこよかったあの人が、ちょっと気の毒でした。でも、その仕掛けとか展開とか推理とか解説とかオチとかやってたら、説明時間も合わせて多分倍くらいの長さの映画になっちゃってたと思うので、これはこれでよかったと思います。同じく原作とは別のオチを用意してた映画っていえば『デスノート』で、これも映画のオチは映画のオチでいい出来だったと思います。藤原くん、いい映画とかいい監督とかに恵まれてるんでしょうかね。
インシテミル』楽しかったでした。館やロボを再現してくれると、とてもいい気分で見ることができますと思いました。この監督で『十角館』とか『時計館』とか『月館』とかやってくんないかな。綾辻ばっかりだけど、多分自分の中で今なんかが来てるんでしょう。あ、『かまいたち』もいいな、ある意味。ミステリ編。でも、『斜め屋敷』とか『占星術』とかは別の監督がいいな。『鳥取蜘蛛屋敷の怪』とかも見たいなー。だんだん好きなもの並べるだけになってきたから、今日はこの辺りで。いやー映画ってほんとうにいいもんですね。