映画『大奥』。

水野の顔がなんかイメージと違うのは、いいんです。同じ顔の人間なんて存在しないんだから仕方ないんです、それは。だから、原作では眉目の涼しい凛々しくてかっこいい水野が、映画では常に眉根に皺を寄せてる気の弱そうな垂れ目になってても、そこはまあまあいいんです。違う顔の人間を起用するなら、原作のキャラクター(性格とか言動とか態度とか)そのままでなくてその顔にあわせて少しアレンジを加えて、ひとつの映画作品としてそれらしく整っていればよいと思うのです。だから誰も彼もが早口で母音の発音が微妙でつまり喋り方が現代人っぽくても、杉下が美形じゃなくても、垣添の顔がやけに大づくりで現代人らしくても、背が高すぎても、藤波が異常な暑苦しさで終盤にはほとんど笑いすら誘ったとしても、それはそれでよいのです。真剣にリアリティだけを求めて製作された映画だというわけではないとか、2010年に製作された映画であるとか、思えば、そんなのは大したことではないのです。というか、むしろ藤波はなかなかよかったです。特にその暑苦しさが。
原作とかマンガ小説映画の形式とか実録ものドキュメンタリフィクションのジャンルとか問わず、全般に作品というものは作られた時点で、少しの脚色もないなんてことはありえないでしょう。つまり、私が私の今日いちにちの生活をモデルにしてできるだけ実際に忠実に書き表そうとしてですよ、一分一秒の狂いもなく正確に全てのことを書き表すことは不可能ですよね、それはもう、何時何分何秒地球が何回まわったレベルの話になりますが。例えば私は私自身の今日の呼吸や瞬きの回数なんて覚えていませんし、よしんば憶えていたとしてそれをその呼吸や瞬きの他の動作とともに書き表すなんて無理です。人間をつかった映像作品にしようとしたって無理ですね、首を傾けるにあたっての微細な角度とか呼吸するにあたって腹の筋肉をどの程度動かしてどれほどの深さで呼吸したとか瞬きのスピードとかを全く事実に忠実に表現することなんてできないと言っていいでしょう。そんなことより何をどう取捨選択するか、つまりどこを省いたり誇張や強調したりするか、それを考える方が大事でしょう、どう考えても。それが、作品をつくるということですね。ぷち専門用語をつかえば表象するということですね。
だから、メディアミックスした作品が、表現方法によって、あるいは製作や監督をした人によって、ちょっと変わってしまうというのは、ごく当たり前のことですね。……この程度のことが納得できるまで、私は何年も何年も費やしました。楽しいはずの映画鑑賞が苦痛になることもいくらかありました。今でも理屈では割り切れますが感情はたまについていきません。好き嫌いとかの話です。
 
今日はここまで。