日常で脱する非日常。

女の子の食卓 2 (りぼんマスコットコミックス クッキー) 『女の子の食卓』第二巻、志村志保子

 

知らないマンガ家さんのマンガだったししかも二巻しかなかったから、二巻読んだんですけど、まあまあの楽しさです。私の好きな短編集と言わんか連作短編集と言わんか、「女の子」と「食べ物」という二題話でいろんな話を描くという。一巻はほんとに連作短編だったみたいですが、二巻は完全に短編集状態です。

私が好きなのは、次の話。

小学生の姉妹が、母と離婚した父に会いに、黙って勝手に父の家に行くと、部屋には女性がひとりと、自分たちと同年代の女の子がひとりいる。彼女らは買い物に行くと言って部屋を出て行く。怒る姉妹に父は、再婚はまだしていなくて再婚したら報告する気だったと言った。父が姉妹に出した麦茶は、(多分ガムシロップの入った)甘い麦茶だった。姉妹の家の麦茶は甘くない。父は、甘い麦茶を気にする様子も無くがぶがぶと飲んでいた。姉妹は、父がもう、自分たちの父ではなくなっていたことを悟り、泣きながら帰る。帰り道、迎えに来ていた母は何か甘いものでも食べていくかと姉妹を誘うが、姉妹は二人とも、家に帰って麦茶を飲みたい、と言い、三人で家に帰る。

私がこの話を好きなのは、多分、ラストで、泣きながら父がもう自分たちの父でないことを理解する姉妹に、共感したという点が大きいでしょう。まだ身近だと思っていた存在が、些細なことで、もうまったく違う存在であることを理解する、というこの悲しさ。その出来事の、あまりの些細さ。その些細な出来事をが、非常な重大事に描かれている構成の巧みさ。この辺に、好きがあるのだと、自分で思います。それから、もう一点。甘い麦茶を飲む父の家から出て、甘くない麦茶のある自分たちの家へ帰る、これによって、姉妹が自分たちの、そして自分たちと母との絆を再確認するというところも、よいです(この部分については、作家がこれを意識して描いていたかどうかは分りません)。日常だと思っていた場所が実は非日常であり、その非日常から脱出して、別の非日常によってではなく、日常的な出来事によって、自分たちの日常へ帰っていく。ここが、非常に非常に、巧みな表現だと、思うのです。私の書きたい展開が、ここにありましたって感じです。

今日ちょっと、褒めすぎ。ここまで褒めちぎるほどかというと、まあ、どうかしら、褒めていい作品だと思ったから褒めるんだけどさ。でも、絵は、白泉社望月花梨をごちゃごちゃとさせた感じだし、現代的過ぎるかもしれないし。一冊読むのが大変だったから。