『細雪』七回目。

細雪(上) (新潮文庫) 『細雪(上)』谷崎潤一郎

細雪』七回目。
谷崎潤一郎細雪(上)』第二章(九頁−一六頁)


使用テキスト:谷崎潤一郎細雪(上)』、新潮文庫版。

○梗概
この章では、『細雪』中を縦断する本筋のひとつ、蒔岡家の零落と雪子の縁談について、説明がなされているので、とりとめがなくて長い。
蒔岡家は大正末期辺りまでは内実は苦しかれども旧幕以来船場に店舗を持つ由緒ある家であった。が、父の放縦な経営と養子辰雄の判断から暖簾を他人に譲り、現在では昔を知る一部の大阪人の記憶にのみ残るというような零落である。したがって、本家の鶴子(長女)、次女の幸子は父に良縁を探してもらえたが、三女雪子は父に良縁を探してもらえなかった上に義兄辰雄の持ち込んだ縁も難癖をつけて嫌がり、さらに零落してからも大家であったかつてのようにえり好みをし続けて婚期を逃し、もう三〇になっている(その下にはさらに四女妙子がいる)。そんな中、幸子らの行きつけの美容院の井谷が縁談の世話好きで、雪子に縁談を持ち込んだ。和風美人好きの初婚真面目なサラリーマン(巴里帰り)、一応良縁といえる感じである。

○気になる言葉とか
(九頁)
・美容院(一六行目)
注解では、「大正十二年三月、山野千枝子が丸ビル内に開いた丸の内美容院が、日本における最初の美容院とされる」とある。
美容院といえば吉行あぐり『梅桃(ゆすらうめ)が実るとき』
NHK朝の連続テレビドラマ『あぐり』の原作)でしょう。このドラマで一般的に有名になった吉行あぐりは作家吉行エイスケの妻で、作家吉行淳之介、女優吉行和子、作家吉行理恵らの母親である。吉行あぐり東京市ヶ谷で美容院を開き、莫大な借金を残して夫が死亡、太平洋戦争の影響で美容院は閉鎖、自宅も焼失、いっぱいいっぱいでしかし子どもを立派に育てたりなどする(戦後辻復と再婚するけど)。で、この吉行あぐりが修行したのが、注解にある山野千枝子の丸の内美容院。
で、夫を早くに亡くして中風の父を看ながら息子を医学博士に育てて娘を日本女子大(後述、「目白」)に入れる、というような精力的な「未亡人」井谷はあぐりと似ているよね。井谷の場合は神戸で、ホテルの中の美容院だけど。でも谷崎がその当時あぐりのことを知っていたかどうかなんてわからない。あぐりは作家の妻だから、知ってたかな。美容院自体も有名だったみたいだし。
(一〇頁)
・女学校(七行目)
高等女学校は、明治二八年、「高等女学校規定」明治三二年「高等女学校令」で誕生(尋常小学校卒業者で、「規定」では修養年限六年、「令」では四年。どちらも一年の伸縮が認められていて、つまり「令」以降では三年制、四年制、五年制が存在している。そして大正九年高等女学校令」改正で、四年制の枠も外れて、五年制もありになる。これは少女小説で語られる女学校が吉屋信子だと五年制(例、『花物語』の「わすれなぐさ」とか)、別の誰かだと四年制であることの説明になるけど、思いっきり余談だね)。
昭和一一年と思われるこの時点で四〇歳くらい(推定)の蒔岡家長女鶴子が女学生の年齢だったのは明治末から大正初頭くらいか、高等女学校の黎明期で、つまり、かなり上流か裕福な家庭の子女でなければ女子は進学できなかった時代である(中流とか大して裕福でもないが学業が出来るので苦学とか、そういった進学は大正後期から昭和初期に多くなった話である。吉屋信子花物語』とか、由利聖子『チビ君物語』とか、横山美智子『     (タイトル忘れた;)』とか)。蒔岡が上流で裕福だったんだなという話で。森茉莉もそうなのか? 
・貧乏所帯(一三行目)(cf新婚の所帯を持って女中を置いて(一一頁五行目))
現代の感覚では、女中の一人も置けるような家庭は「貧乏所帯」とはいわない。昭和初期には、裕福な家庭の主婦の仕事は女中を監督・指揮して家事を行わせることであった(森茉莉『記憶の絵』において茉莉が嫁ぎ先でどのように家事を行い、また行わなかったかが描かれている)。それほど裕福でなくても女中を一人おいて家事を監督させる事がステイタスである。昭和初期より増加する中流サラリーマン家庭では、システム化された文化住宅などに住んで主婦が自分で家事を行うこと、が新たなステイタスになる(吉屋信子『女の友情』においては、サラリーマンと結婚して自分で家事を行い夫と対等に付き合い「中流サラリーマン家庭」を築く  (名前忘れた;「初代」とかそういう感じの)がその生活を文化的で進歩的な新たなステイタスとして誇らしげに語っている)。
また『エマ』だが、一九世紀末イギリスでも、(上流家庭では零落しようとなんだろうと女中を必要なだけおくが)中流家庭では多少無理をしてでも女中を一人おく事がステイタスである、とされていて、エマもケリー先生の家で一人しかいない女中をやっている(森薫村上リコ『エマ ヴィクトリアンガイド』)。
ただ、零落しても数人の女中を使って家庭を経営している蒔岡の家から、無理をしてでも最低限一人は雑役女中をおくとかそういうサラリーマン家庭に満足できるかといえば明らかに無理だろう。そしてこの縁談はまとまるわけがないという予感がここで既に起きるわけである。
(一一頁)
・器量好み(八行目)(cf婚期を逸して(一二頁一一行目))
お仕事で人前に顔を出さなければならない奥さまというものなら顔は多少選考基準のうちだろうが、家においてただの主婦にする妻に器量のよさを要求するのだから、よほど美人好きなんだね(人前に顔を出す奥様とかはつまり上流階級の夫人のことで、古いところなら鹿鳴館とかに踊りに行かないといけなかった方々のことだね。現代でも多分外交官夫人とか皇族の配偶者とかは容姿が選考基準のひとつになってそう)。
ちょっと話はずれるけれども、前出の女学校とかにはしばしば少女の青田刈りが出没していたらしくて、例えば運動会の来賓席とか、家柄がそこそこで美人とかなら卒業前に青田刈られて退学する子女も多かったとか(ていうか井上章一『美人論』によれば、きちんと卒業なんかしちゃうとよほど不細工なんじゃないかということで「卒業面(そつぎょうづら)」とか言われちゃったりしたという話だ、失敬な)。川端康成『乙女の港』には上級生は名札代わりのリボンを胸につけて来賓席のお世話をする、というような場面がある。現代ものだけど紺野緒雪『マリア様がみてる』にもそんな話がある(記憶が定かじゃないけど)し、現代ものかつマンガだけど川原泉笑う大天使(ミカエル)』では冬場の学校行事「マラソン大会」において主人公の一人斎木和音さんが青田刈られて嫁にスカウトされている(結局まとまらなくて違う男性との仲良さを意識するという結果に終わるけど)。「卒業面」はあんまりだけれども、卒業までに嫁ぎ先の決まることは多分普通で(むしろ学校に行くことの方が特殊なのだが)、現代の作品(舞台は大正中期)でマンガだが大和和紀はいからさんが通る』の一巻冒頭にも、誰かがどこかに決まって、主人公花村紅緒が没落華族伊集院家に決まって、とそんな噂話で教室がいっぱいだ(この場合は紅緒もその親友環もそれに反発する自由恋愛派だが)。もちっと文学よりでは吉屋信子『暁の聖歌』において主人公ちえ子の「おねえさま」が卒業間際に結婚が決まる(これもちえ子と生涯友情を結ぶための殆ど手段としての「ちえ子のおじさま」の後妻に入るという形であるから、結婚は主筋ではないが)。要するに器量よしなのに全然結婚の決まらなかった雪子は一種特殊な例であるということか(ちなみに妙子の縁談がまるでないのは、妙子が自由恋愛派で新聞事件を起こし宝などではなくて、単純に雪子がつっかえているからである。むしろ雪子がつっかえていて自分に話がこないので恋愛醜聞事件を起こしたと見るほうが順序としては正しかろうと思う)。
・第一に手足のきれいな人(一五行目)
足フェチだから、書いてる人が綺麗な手足の人が好きだから。突然こういう描写を見つけるとびっくりするね。『細雪』は視点人物が貞之助、幸子、雪子、としばしば無制限に入れ替わるので、女性の足に関する描写などがこの作家にしてはたいそう少ない作品であるのだ。だから余計に。この箇所は、井谷(女性)が幸子(女性)に雪子の縁談の相手(男性)の要望を代弁しているので、男が喋っているといってもいいかも知れない、だからいかがわしい印象があるのかな。
・目白(一八行目)
目白にあった日本女子大学の前身。明治三四年設立。男子の中学校五年、高等学校三年、大学三年、に、女子は高等女学校三−五年、高等科三年、本科三年、で対応している。でも専門学校扱い。
(一三頁)
船場(五行目)
江戸時代から続く豪商が軒を並べる地域。大阪で船場におうちがとかいえば、「ちょっとした」どころではないステイタス。一応商業地域だから東京の山の手とはちょっと違うけれども、格式が高くて、伝統がある。蒔岡もつまり格の高い家柄なのだ。没落したけど。縁談にしたところで、中途半端な相手では蒔岡側も相手側も二の足を踏むよね。だからしかるべき人がしかるべき相手を探すし、見つからなかったら大変なことになっちゃうわけだけど。
(一四頁)
・田舎紳士(一〇行目)
船場のお嬢さんで教養も高ければ、そりゃーいやだろうと。
(一五頁)
・忍従一方の婦人(三行目)
また出たけど、「忍従一方の夫人」でない方がいいと登場人物に発言させるのは、ナオミが非常に魅力的に描かれているのと同じ方向性だと思う。