「リアリティ」の問題。

ロード・オブ・ザ・リング ― コレクターズ・エディション [DVD]ロード・オブ・ザ・リング』コレクターズ・エディション(DVD)監督はピーター・ジャクソン、主演はヴィゴ・モーテンセン(ちょっと嘘)


いったい何をもって「リアリティ」と呼ぶのか。今日はその問題についてお話をしたいと思います。真面目にやれ。はい。


ある映画を観て、あるいは小説やマンガなどを読んで、「この作品にはリアリティがある」とか、「この作品にはリアリティがない」とか、批評する。この「リアリティ」が「ある」とか「ない」とかという曖昧な評価をもう少し丁寧に説得力ある表現で表したいよね。
ここでまた『細雪』の演習授業の話だが、ある日、質疑というかまったりとしたお喋りというか、の時間の中で誰かが「『細雪』にはリアリティがない」といい、また別の誰かが「いやいや、『細雪』にはリアリティがある」と反論した。この二人の意見は相反するけれどもどちらも正しいと私には思えたのだ。
「『細雪』は谷崎が太平洋戦争中に書いた作品で、時局がら華美な服装とか非生産的なやりとりとかまったりした生活とかあり得ないはずなのに、全然リアリティないよ」
「いやいやー、『細雪』は京阪神の裕福な家庭を、細微な点まで忠実に描いてるし、きれい事だけじゃなくて生活の姿が描かれているし、リアリティに溢れてるよ」
……どちらも正しいと思いませんか。


「リアリティ」には二種類ある。「この世界らしさ」と「もっともらしさ」と私は呼ぶことにしているが、それで表現できているだろうか。
「この世界」らしい、とは、私やあなたが今生きて生活しているこの世界のことだ。東京があったりニューヨークがあったり銀河帝国はなかったり、日本は人口が一億三千万位で大方の人は地上に住んでいてビルは地面に座っている。宇宙にひょいと行けたりしないしタイムマシンはまだない。雨が降るし異常気象である。日本には四五〇年前位に織田信長がいたらしくて、イギリスには二〇〇年ほど前にヴィクトリア女王がいたらしい(嘘かも)。
細雪』は分かりにくいような気がするし、いささか飽きてもいるので(私が)、ここはひとつ違う例を引いてこよう。私の大好きな『指輪物語』(私の好きなのは映画だけど)。「この世界」らしい「リアリティ」にもとづいた「リアリティのある作品」では、エルフやホビットドワーフ、魔法使いは存在しない。『指輪物語』は「この世界」らしい「リアリティ」には欠けた作品である。
「もっとも」である、とは、登場する「この世界」らしくない設定でも、その作品世界においてはきちんと説明がついている、ということを指す。「これこれこういう原理で動くのだ」ということを説明してくれれば、タイムマシンが出てこようがビルが変形して動き出そうがセーラー服様のコスチュームが空中からわいてこようが、「もっともらしい」という点において「リアリティ」がある、ということができる。空から女の子が!降ってきたって、その女の子の首に「飛行石」のペンダントがかかっていて、その世界が「飛行石」の持ち主は空中に浮くことができるという世界であれば、何の問題もない。
エルフやホビットドワーフ、ヌメノール人、魔法使いが、これこれこういう理屈でこういう原理でこういう風に存在して住み分けて生活している、というような説明がなされていてそれが作中で全く破綻しない(当たり前だ、破綻するような作品は「論外」という)のだから、「もっともらしさ」という点において『指輪物語』はとても「リアリティ」のある作品であると言える。
そのかわりね、きちんと説明できていなければ「もっともらしい」ということにはならない。映画『宇宙戦争』(スピルバーグ監督のリメイクの方)の冒頭、「トライポッド」に掃討される人々が逃げまどうシーンで、電子機器が全て壊れてるはずなのに動いてる小型ビデオカメラはいったい……とか。