枕草子をかわいく訳そうキャンペーン2、第二段、第四段。

※ごちゅうい。真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。原文では同じ言葉でも現代語訳では違う言葉になってたり、原文では違う言葉でも現代語訳では同じ言葉だったり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって思ったので、現代人でもわかるようにしようとした結果です。だから不正確ですので、うっかり中学生のみなさんや高校生のみなさんが迷い込んで来られても、お信じにならないようにお願い申し上げますよ。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指します。そして、テキトーに訳していきます。
 
※まじめなけんきゅうではありません。それに柳橋(仮)先生の専門は古典文学でもありません。ですから、もしうっかり柳橋(仮)先生のリアルの知り合いの方がご覧になって間違いとかお見つけになっても、あんまり厳しく追及しないでやってくださると嬉しいです。
 
手元に書籍的なものがなかったので、原文は方々のウェブサイトを参考にいたしました。
 
 
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第二段(原文)
頃は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべてをりにつけつつ、一年ながらをかし。
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第二段(現代語訳)
いい時期ってのは。一月、三月、四月、五月、七月も八月も九月も、それから十一月に十二月。えーと、結局なんでも、その時その時にいろんな行事とかいろいろあって、一年じゅうずっと雰囲気あっていい感じ!

 
 
 

第四段(原文)
三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいま咲きはじむる。柳など、をかしきこそさらなれ、それもまだまゆにこもりたるはをかし。ひろごりたるはうたてぞ見ゆる。
おもしろく咲きたる桜を長く折りて、大きなる瓶にさしたるこそをかしけれ。桜の直衣に出袿して、まらうどにもあれ、御せうとの君たちにても、そこ近くゐて物などうち言ひたる、いとをかし。
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第四段(現代語訳)
三月三日は、眠くなりそうに穏やかに、日が照っている(とても、いい)。桃の花が、咲き始めている(これも、とてもいい)。ねこやなぎが可愛いのは言うまでもないのだけれど、それも、まだ繭にこもってるみたいなのが、とてもいい。ちょっと育ってひろがっちゃうと、見た目にちょっと鬱陶しいような感じ(あんまりよくない)。
いい感じに咲いた桜の枝を、ちょっと長めに折ってもってきて、大きな瓶にさしてあるのが、すごくいい感じだなぁって。こう、男の人が春服になって、インナーの裾とかちょっと出したりして(あ、裾出しってだらしないんじゃなくて、普段着の着方ね)、そういうかっこの人だったら、お客さまでもそこの家のご兄弟でも、その桜の花瓶の辺りにいて、なにかちょっと話してるの、ふふっ、そういうのってとても素敵ね。

 
 
「桜の直衣(のうし)」っていうのは、桜が咲くちょっと前から桜が咲いてる頃まで着る、春の普段着のことで、「桜の」ってのは「表から見ると桜みたいに見える色合いの」っていう意味ね。こう、二枚の布を重ねた時の話で、表が白で裏が赤とか紫とかって二枚重ねにしたら、白い布から中が透けて桜色みたいに見えるでしょう、で、「表から見ると桜みたいに見える色合い」ってわけです。裏が赤とか紫とかってはっきりしないけど、これは諸説あるせいね。だって、裏が赤でも紫でも、上から白を重ねたら桜色でしょう? 最近では、若い人は赤色、年取ってくるとだんだん紫っぽい色にしていって、お年寄りは紫色っていう説もあります。どっちにしても素敵。をかし。
で、「直衣(のうし)」ってのは上着なんだけど、上着の裾から「袿(うちぎ)」っていうインナーをちょっと出すのが、「出袿(いだしうちぎ)」。高校の古典の時間には「出衣(いだしぎぬ)」とか習うかも。制服のブレザーの下に可愛い色のセーターとか着てる時、ブレザーの裾とか袖口からちょっとそのセーターの裾とか袖とか出したりするでしょ、可愛いから。「出袿」ってそんな感覚かもです。
 
 
第三段は長いから、また今度です。前から順にやっていくって言っといて二回目にして早くも飛ばし始めるというこの簡単な感じ。それは、まじめなけんきゅうじゃないからなのでした。ではこのキャンペーンはなんなのかというと、しいて言えばかわいい文体の研究と申しますか、なんかそんな感じです。

『枕草子』をかわいく訳そうキャンペーン。

枕草子』を初めから順にかわいく訳そうキャンペーンを実施します。全部訳せるかどうかはわかりませんが、気が向いたときに気が向いたとこまで。原文→現代語訳の順に載せておきます。あと、時々、現代語訳の後ろに柳橋(仮)先生のふまじめちょっとだけ平安時代こうざーがついてる時もあります。
恥ずかしくなったら消すかもしれません。でもこのブログの方針はいっかい書いたら消さない(自戒の意味も込めて)ですので、消さないかもしれません。
 
※ごちゅうい。真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。原文では同じ言葉でも現代語訳では違う言葉になってたり、原文では違う言葉でも現代語訳では同じ言葉だったり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって思ったので、現代人でもわかるようにしようとした結果です。だから不正確ですので、うっかり中学生のみなさんや高校生のみなさんが迷い込んで来られても、お信じにならないようにお願い申し上げますよ。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指します。そして、テキトーに訳していきます。
※まじめなけんきゅうではありません。それに柳橋(仮)先生の専門は古典文学でもありません。ですから、もしうっかり柳橋(仮)先生のリアルの知り合いの方がご覧になって間違いとかお見つけになっても、あんまり厳しく追及しないでやってくださると嬉しいです。
 
手元に書籍的なものがなかったので、原文は方々のウェブサイトを参考にいたしました。
 
 
第一段(原文)「春はあけぼの」
 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、からすの寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入りはてて、風の音、虫のねなど、はたいふべきにあらず。
 冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず、霜のいと白きも、また、さらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。
 
 
第一段(現代語訳)
 春はやっぱりあけぼのよね。だんだん白くなっていく空、山のちょっと上のあたりの空がちょっと明るくなってきて、雲がね、薄紫みたいな色の雲がほそーくたなびいてるの(とってもきれい)。
 夏は夜。月が出てれば言うまでもないわね。月が出てなくて真っ暗なのもいい。蛍がたくさんちらちら飛んでるのとか。あと、同じ蛍でも、一つとか二つくらい、微かについーっと光って動いてるのもとってもいい。雨とか降ってても雰囲気が出るよね。
 秋は夕暮れでしょ。夕日が差してて、山の稜線にとても近づいてて(山が夕日で真っ赤になってきらっきらしてるの)、そこに、からすがねぐらへ帰るんだって、三つ四つとか、二つ三つとか、急いで飛んで行くのとか、しみじみしてて、雰囲気あって……(こういうちょっとさびしい感じ、胸がちょっときゅんっとするよね、「帰りたい」って感じね)。しかもさ、雁とか並んで飛んで行くのがすっごく小さく遠くの方に見えるのとか、もうほんと雰囲気あって素敵。夕日がすっかり沈んじゃってからも、風の音とか、虫の声とかが素敵なのも、もう言うまでもないわよね。秋の夕暮れとか語ってたら余裕で三時間とか経っちゃうから、この辺にしとくわね。
 冬は早朝がいいわ。雪が降ってるのは言うまでもないよね。霜が降りてて窓の外が真っ白なのも、霜とか降りてない日でも。すっごく寒い朝に、火鉢に入れるためにね、当番の人が炭の用意をするんだけど、火とか急いでおこして、それで暖かくなった炭を持って運んでまわってるのとかも、いい感じね。でも、お昼ごろになって、だんだん寒さがゆるんでくるでしょ、そうすると、火鉢の火もなんんだか白くなって灰ばっかりになって、あんまりよくないわね。
 
 
 平安時代感覚についてちょっと。こういう、「秋の夕暮れ」みたいな、なんだかもの悲しいみたいな雰囲気だけどすごく素敵、あぁ風情あるーって感じのこと、「もののあはれ」っていうのです。それで、「冬の朝」みたいな別に物悲しくなくって普通に素敵って感じを、「をかし」っていいます。
 それから、「わろし」なんだけど、悪いんじゃないのよ、よくないって感じなだけ。いいところから「よし」→「よろし」→「わろし」→「あし」ってだんだん悪くなっていくんだけど、「いいね!」→「悪くないよね」→「あんまりよくないかも」→「ダメ」って感覚です。だから、冬のお昼頃とかは、「ぼんやりあったかくて炭が灰になっちゃってなんかフツーだよねー」って感じ。

子分。

ちょっと前にですね、日本からうちの大学に修学旅行か研修旅行かなんかで来た日本の学校の学生さんがなんか文化的な話についてプレゼンテーションをする、というのを近くで見たのですよ。私は別にそういうの担当とかじゃないですがね、おつきあいといいますか、たちあいといいますか、自由に動くスタッフはひとりでも多くいた方がいいであろうという配慮的な。と申しますのも、そのプレゼンテーションとやらが、こちらの、つまり日本語を勉強してる人になんか話してちょっと活動させてまたなんか話して、的なプレゼンテーションだったので、こちらの学校でも学生を動員する必要があったのですね。それで、そういった国際交流的なことをつかさどる先生が私に、すみませんが柳橋(仮)先生の授業の学生を貸してくださいと、おっしゃったのです。えーと、そのプレゼンテーションの発表会に出席することでその日その時間の柳橋(仮)先生の授業の出席とする、みたいな。まぁ日本語を勉強してる学生なので、日本人と接することは悪いことではないでしょうというのが私の方針ですので、こころよく学生をお貸しして、ついでに私も出席したわけです。私は一緒に活動とかではなくて横とか後ろの方に控えていてスクリーン周辺の電気をつけたり消したり、あとPCが韓国語表示ですから読めない日本人学生のために近くにいたり操作の説明をしたり、あとは日本から引率していらした先生方に頼まれたのでそのプレゼンテーションの留意点などをメモして話したり、着替えたい学生を薄暗い控室へ案内したり浴衣畳んだり、雑用係乙でした。年に何回かそういったイベントがあって、上の話は春先のことですが、つい先週及び先々週も日本から研修旅行の学生が来てました。あれです、お手伝いと称してその教室におりますとね、うちの学校の国際交流的なことをつかさどる先生に、すげぇありがたがられるわけですよ。んで、うちのネイティブスピーカーティーチャーでこういった交流事業などにいつもものすごく協力してくださる柳橋(仮)先生ですとか紹介してもらえるわけですよ。なんの報酬もありませんが、そのようなありがたがられ方をすると、気分がいいわけです。だから手伝うという面がないでもないことをここに告白しておきます。いや、こんなところでこっそり告白したところで別に誰が見てるわけでもないんですが。いや、だからここでこっそり言うわけですが。それに私はお祭りが好きですので、そういった非日常的な仕事が大好きなのです。
でもね、夕方くつろいでいたらいきなり国際交流的なことをつかさどる先生から電話があって、今ちょっと日本から研修旅行団が来てるからご挨拶だけでもとか呼ばれて行ってみると、その日その時間からその国際交流的なことをつかさどる先生が用事で席を外すのでこの近所の肉屋に皆さんをご案内していただけませんでしょうかよろしくお願いいたしますとか言われると、多少困ります。というか、びっくりします。いきなりだなおいと思います。私が断るとみんな困ると思うので連れて行きますが。こないだはそうやって連れて行った肉屋で日本から来た人たちが全員席に着いてから、美しい布で被り物をした女性が混ざっていることに気が付きました。そう、豚肉を食べられない留学生が混ざっている集団を私は豚肉屋に連れて行ってしまったわけです。そういうことは先に言え的な。ちょうばたばたしながらひとテーブルだけメニューを変更したりしますけど、そういう時にスマートになんでもちゃっちゃと手配できるおとなになりたいです。私なんかまだまだです。
その国際交流的なことをつかさどる先生に、私は普段よくご飯に連れて行ってもらって、お昼ご飯とか週に一回くらいは食べさせてもらったりするんですけど、ほかの先生とはもうちょっと距離感のあるお付き合いですから、その先生だけですけど、多分ね、私はその先生がそういう時に何でも便利に頼める子分的な存在なのであろうと思います。学生の子分もたくさんいるんですけど、やっぱ先生がもうひとりいた方が便利じゃん? その先生はほかの先生とあんまり仲がおよろしくないようなので、頼める先生がいないんですね。私はその先生と仲良しの先生の子分みたいな感じだったので、なんていうか、この学校に入る時の私のコネ的な先生なのです、その国際交流的なことをつかさどる先生が。だから便利に使われたりご飯おごってもらったりという子分システムに組み込まれてしまったのです。そんなはっきりきっぱりコネであるとは言いきれませんが、学校の先生ってそんな感じで決まることが多いようなので、否定もしきれない。まぁでもその先生の子分システムに入っちゃったおかげで、その先生の子分の学生を私の子分のように使うことも多分可能になっていると思うので、いつかなにか困ったら使ってやろうと思っていたり、いなかったり。いえいえ、勉強になることも多いし、人間的な成長も多いので、いろいろな経験ができて嬉しいのも事実です。上の発言はツンデレということでひとつ。
うちの学校には私以外にも複数の日本人の先生がいますけれど、私以外の先生はそういうなあなあとした子分システムが多分お嫌いです。だからその国際交流的なことをつかさどる先生にご飯おごってもらったりとかはしないみたいです。いや、個人的な人間関係の好き嫌いでそうなのかもしれませんので、よくわかりませんが。
あ、こういう話、あんまり透明感あふれる話ではないような気が書きながらしてきましたので、もしうっかり万が一関係者の人が見ちゃったら、どうしようかと思い始めましたが、まあ大丈夫でしょうね、多分。ごく少数のリア友以外誰も見ない辺境のブログだし。しかし、もしうっかり万が一これをご覧になってしまわれた関係者の方がいらっしゃいましたら、どうぞ誰にも何もおっしゃらずになまぬるいヲチをお願い申し上げる次第でございます。

天に選ばれし芸術家とかの話。

昨日の続きです。
あるクラシックバレエダンサー(女性)のお話。
私は子どもの頃からバレエを始め、顔が可愛くないというコンプレックスなどとも戦いつつ、一生懸命修業しました。だんだん自信もついてきて、このまま舞踊家として一生がんばろうと思えるようになってきた二十代もそろそろ半ばに差し掛かろうかという頃、恋愛をしました。自分も相手の男性もけっこう本気で、結婚を考えていました。しかし、母は言いました。あ、母もかつてはクラシックバレエのダンサーで、私の師匠です。「お前は一人の女性であると同時に、芸術家なのよ。そしてお前の性格では、その結婚と芸術は両立できないわ。お前は求道者だもの。」 葛藤の末、私は恋愛をあきらめました。今のこの国のこの社会では、確かに、芸術家と嫁の両立は難しいと私も思ったのです。恋人とは別れ、私は舞踊に一生を捧げる覚悟を決めました。
っていう独白とか、真面目な感じでドキュメンタリタッチで描かれたら、応援するしかないじゃないですか。これってなんて少女マンガ! こういう求道者タイプの先輩(だいたいわけもなく長身の金髪で縦ロール、あと優しい)に見守られながら世界的に有名な師匠に見いだされて恋もコンクールも成功させちゃうヒロイン、の陰で、こういうタイプの先輩を子どもの頃からずっと見てた幼馴染とかがそっと支えてる、みたいな!
こういう萌えキャラがいっぱいいるのが、くだんの番組です。上の先輩タイプのバレリーナは、一分間自分の持ちネタで踊るという形式のドラフトにおいて、「白鳥の湖」の「ブラックスワン」を踊ったのですが、もうなんか出てきた時からほかのダンサーと風格が違いました。普段着に近い格好のストリートダンサーとか動きやすいワンピースのモダンバレエダンサーとかきらきらしい服装だけど男女ペアで出てくる社交ダンスの競技者のみなさんとかに交じって、一人だけ、バレエのチュチュ(あの針金入ってる広がったスカートの、バレエと言ったら思い出すあの衣裳)でしたから、そもそも目立ってたのですが。また、人に交じって立っていると小さいお姉さんなんですが、踊り始めるとやけに大きく見えるのです。アップになるからという理由ではないと思います。で、数週間後に上の独白なので、あぁやっぱり芸術に人生を捧げた人はこうなんかただの人間ではないなにかになってしまうのだと思った次第です。
多分、こういうダンサーの皆さんにも、私は銀のロマンティック的な何かを感じているのでしょう。
あ、言い忘れてましたが、番組のタイトルは、「ダンシング9」といいます。

字幕だいじ。

夏ごろから、こちらのテレビ番組を見ているのですが、なんで急に見始めたかというと、字幕が付いていたからです。私は、日本のもこちらのも、テレビドラマのほとんどには興味がなく、バラエティ番組には興味がありません。こちらで日本の番組ばかり字幕付きで放送するチャンネルがありまして、五年前に住んでたところでは日本語に接したければそのチャンネルを見るしかなかったのですが、あんまり見ませんでした。ドラマとバラエティ番組ばっかりだったからです。彼氏ができてからは一緒に見るようになりました。見始めてからわかったのは、日本のケーブルテレビ「旅チャンネル」の番組を多めに放送しているということでした。安いんでしょうか。「旅チャンネル」の番組はナレーションが静かで映像が淡々としていて、好きでした。中でも「秘境駅」を探訪するような番組が好きでしたが、先日実家に帰りましたら母が同じ番組を好きでびっくりいたしました。私も母も鉄子なのです。さて、結婚してこちらに住むようになったときに、夫がこちらのケーブルテレビと契約して私が日本語の番組を見ることができるようにしてくれました。先述の日本の番組ばっかりやってるチャンネルと海外版NHKといくつかのアニメ専用チャンネルです。私はやはりドラマにもバラエティ番組にも興味がなかったので、アニメばっかり見てました。映画はたまに見ました。こちらのバラエティ番組は日本のとほんとにそっくりで、全く見る気がしなかったのですよ。で、この夏、実家に帰って戻ってきたら、夫がなんかダンス番組にはまったとか言って見せてくれたのが、冒頭の夏ごろからずっと見てるっていう字幕付きの番組です。
その番組はですね。赤青二チームのダンスマスターが、まずオーディション→ドラフトで何十人かのダンサーを選んでチームを編成します。それからチーム内で何回もさまざまな審査を重ねてダンサーをふるいにかけ、十二人まで絞ったところでチーム対決、最終的に九人のチームを編成し、生放送で五週間にわたってチーム戦という感じの、ようするにダンス番組です。ダンサーは、ストリートからジャズダンサー、社交ダンスの競技選手、モダンバレエダンサー、クラシックバレエダンサー、民族舞踊手、素人さん、ニューハーフなど、さまざまでした。最終的に選ばれて編成されたチームも、さまざまなジャンルのダンサーがそろっていて、面白かったです。それの、2013年版です。2014年版もありましたが、そちらは特に萌えませんでした。13年版はなんか熱かったです。萌えキャラがいっぱいいたというか、たとえば、ナルトとか見てると主要キャラ一人一人で普通に連載マンガできそうじゃないですか、そんな感じです。いちいち内容を話すと多分三時間ぐらいノンストップで喋ってしまうかと思われるのでここでは割愛するとして。
この番組を見るのに大事だったのは、字幕の存在です。この番組には、生放送部分は仕方がないですが録画部分にはすべて字幕が付いていたのです。放送に音がのるかのらないか微妙な雑談とか独り言とかにも全部です。しかも、バラエティ番組によくあるあのカラフルで文字の大きさがいろいろで画面の構成においてかなりの自己主張を感じるあのいわゆる「テロップ」ではなく、黒い帯に白い文字で、スラングはいくらか上品な言葉に直した(たとえば、「めっちゃ力入るでしょ?」→「とても力が入る(感じがする)でしょう?」みたいな)、なんとなく聴覚障碍者用かもしれないと思わせる字幕でした。
見始めた時には、単純にダンスがすごいので楽しくなって毎日見るみたいな感じでしたが、しばらくたって字幕を読みながら解説とかをきくようになりました。以前、こちらに来てしばらく経ってから、三ヶ月だけ語学学校に通って言葉を勉強したことがあるんですが、だからちょっとだけは言葉はわかるんですが、複雑な話になるとちょっと会話では無理です。そうね、買い物をする、コーヒーショップに寄る、タクシーに乗る、道を尋ねる、道を教える、自己紹介をする、日本語や日本の文化文物について少し紹介する、こういうのはなんとかなるかなんとかしますが、学校の規則について改訂案の会議、みたいな話になると筆談にしてくださいって気分になります。書いてあればまたなんとかなることも多いのです。でも書いてあるだけだと読めなかったりもするので、書いてあることを発音してもらえるとめっちゃわかりやすいです。という感じですので、話してることにいちいち字幕が付いていると、なんかとてもわかりやすいのです。そんな感じで、三ヶ月ぐらいずっと同じ番組を繰り返し見続けていますが、最初わからなかった笑いどころとかも最近ではわかるようになって、一緒に見てる夫と一緒に笑えたりします。だいぶん進歩したなぁ自分の語学力、と思うと感慨深いです。
ちなみに、こちらの映画やテレビ番組に日本語字幕がついているだけではまだ私には勉強としては早かったです。字幕ばっかりで理解してしまい、音声をきかないからです。逆に日本の映画やテレビ番組にこちらの字幕がついていると、これはだいぶん長いこと字幕邪魔だなって思ってましたが、最近はいくらか読めるようになってきて、目が勝手に字幕を追います。声が小さくて聞き取れない時(アニメにはあまりないです、ドラマに多いです)とかには、字幕を頼りに話を把握したりする時もあります。たまに誤訳を見つけて、いい気分になります。

手が怖いとか思ってた子どもの頃の話。

子どもの頃は、道に落ちている手が怖かったです。なんか、ぽろっと手だけ正確には手首から先だけが落ちているという恐怖の妄想。同じくらいの年齢の女の子たちと私で三人で、なんかやたら怖がって家に帰るのも三人一緒(隣り合った建物に住んでおりました)、遊ぶ時の定番は駐輪場の隅に寄り集まって怖い話、怖い話に登場するのはかならず「手」、という具合です。いくらか冷静になった何十年後の今となってはそれはほんとに怖がってるのかという疑問がわくところですが、当時は本気で怖がりながら「手」の話をしておりました。
関西人ですから、一文字で「て」ではなく、「てえ」です。関西人には一文字の名詞は発音できないのです。「てえ」は、発音的には「かなり抑揚をはっきり発音しようとした時の「恋文」の「こい」の部分」とかが近いかと思われます。一音目が地の底から響くごとくに低く、二音目は普段のトーンに戻る、といった感じの発音になります。
関西人以外の方が関西弁の類を発音なさろうというとき、だいたい「語尾上がりなのよね」とお考えになった末に一音目を普段の普通のトーンで始められて、二音目以降をだんだん高くしていって最終的に鳥の鳴き声のように高い音で締めるといった話し方におなりです。ちょっと昔見た二時間ドラマを思い出してごらんください。湯けむり何とかとか舞妓何とか京都料亭何とかとか大文字何とかとかいう感じで主人公の刑事さん御一行様が京都においであそばしたとき、むかえうつ旅館の女将とかそういった方々のご挨拶とかお話とか、どうしたのこの人というような上ずった声で話してらしたことを思い出す……のは、多分関西人だけで、関西人でない方は特に思い出さない上に説明したって別にそれがどうしたと思うんだということをいまさらになった思い出しましたが、まぁいいと思います。というわけで、関西弁を「らしく」話すコツは、いつもより格段に低いトーンから話し始めて徐々にいつものトーンまで戻してくるような語尾上がりである、と申し上げておきます。いつものトーンから初めて語尾上がりにもっていくと鳥を締められた感じになるのでご注意ですよという話です。あ、語尾上がりだけが関西弁ではありませんが、語尾上がりの件についてはこういう感じでということで。あと関西弁といっても千差万別でひと言で片付けることが不可能なのは関西弁以外の言語と同じであるということも申し添えておきまする。
最近、学校で、関西弁講座とかやってくださいよー先生ーとか言われて、簡単にいってくれるなこの子はと思ったので、このような展開になりましたが、最近はいつもの話し方にちょっと「やん?」とかつけたら関西弁になるって思ってる若い子が多いような気がしました。いや、昔からか。鳥の鳴き声のような関西弁の人は女優さんに多く、やんってつければいいって思ってそうなのは声優さんに多い、けどどっちもだいたい女性であって男性の関西弁キャラ(演者がnotネイティブ)はあんまりいないという印象です。男性にもいなくはない(すぺいんさんとか)、いなくはないですが、最近はーれむ系あにめばっかり見てるからなのか、昔は二時間ドラマばっかりみていたからなのか、そんな印象、女の子が数多く出てくると関西弁キャラとか作っとかないと見分けつかないとか、旅情(非日常な雰囲気)を演出するために関西弁キャラが必要なのだろうとか、いろいろ考えるけどまた今度。
方言を方言らしく話すのは多分語尾とか語彙よりも抑揚が大切なのであります。ちょっと考えてみて、新一と平次が、いや、蘭ちゃんと和葉ちゃんでもいいけど、同じ国語の教科書を使っているとして、それぞれ同じページを音読させられている授業中、同じ文章だけど、平次とか和葉ちゃんとかは確実に関西人だってわかる朗読するよね、これが方言に大事なのは抑揚っていうことです。語尾とか語彙とかは後から後から。方言は外国語と同じく、たくさん聞いて、同じように話してみるっていう環境にいなければどんだけ本で読んで勉強しても難しいんじゃないかなって思った次第です。
で、最初の「手」に戻りますが、小学生女児の三人組はある日道を歩いていて、大型トラックが停車しているのに出会いました。トラックの荷台と車輪のあいだ辺りにはよく作業用のゴム手袋がひっかけてありますね。女児たちはそれを目撃したのです。「うわ、てえや」(「うわぁ!手だ」)と叫んでパニックになる女児たち。いやぁまじで怖かったです。どうやって逃げたんでしょうね、「手」から。
私はこの「「手」が怖い」が沈静化する前に転校して、あと二人の女児たちとは会わなくなってしまったので、そして転校してからはほかの懸念事が増えて「手」みたいなものを怖がっている心の余裕を失ってしまったので、もう「手」が怖いということはなくなったのですが、彼女らはいつごろ「「手」が怖い」から卒業したのでしょうね。聞いてみたいところですが、多分今聞いたって自分が「手」を怖がっていたことなんて思い出さないでしょうね。子どもの時のこととかねちねちいつまでも憶えているなんてあんまり普通の人のすることじゃないのです。だいたいみんな忙しくなって忘れてしまうので。でも私は小さい頃のことけっこう憶えていて、人に楽しく話したりできるので、これはこれで楽しいです。能力ってほど鮮明に憶えてるわけじゃないのがちょっと残念です。

便利屋のお仕事。

今年は例年より便利屋仕事が多い気がします。
私、外国の大学で日本語の教員してるんですけど、日本語教えるだけが仕事じゃないですね。先生のお仕事って、小学校も中学校もどこもそうだと思いますが、際限ないですよね。教えるために準備するのも仕事だし、学生が進路やら人生の相談に来たら答えるとか、課題の食事につきあうとか。他にもいろいろあると思いますが、私は外国人だから重要な書類仕事とか全学会議みたいなのとか学科の根幹的な会議とかそういった重大なことは蚊帳の外なので、いくらか楽です。いいことか悪いことかはわかりませんが>蚊帳の外。で、しかし、私には学生やら世話になってる先生やらからの頼まれごとを断れないという性格があります。なので、学生から日本語演劇をするから日本語微妙なキャストの発音とか全体的に日本語監修とかとか頼まれたら断れない、先生から日本語で作る書類の日本語微妙だから見てとか学生に推薦状書かないとだから書いてやってとかとか頼まれたら断れない。だって普段世話になってるんだもん。ご飯もちょくちょくおごってもらうし。<これは多分私が断りにくいようにご飯おごってくれてるんだとは思うけど、でも、私以外の日本人の先生がそういう給料と関係ない仕事嫌いだから私が断ったらこの人どこにこの話頼むんだろうとか頼まれると断れない。ま、やってあげてお礼を言われると気分いいっていうのもあるけど。
そんでね、今日はね、なんと、祝辞を作りました。一からじゃなくて草稿らしきものとメモはあったけどね。私の年相応の祝辞じゃなくて、学長代理がよその学校の何十周年記念とかで挨拶するっていう祝辞ですよ。うわぁ私なんぞが作っていいのか、と思いましたが、作ってと言われたら作るしかないです。断ったら多分困ると思うから。できた文章は誰かもうちょっと下っ端仕事じゃない人にチェックに回されるといいな、とか、チェックに回されたら私の文章が人目にさらされて恥ずかしいわとか(口頭で読まれるのと人さまに文面で見られるのはまた別種の恥ずかしさ)、いろいろあるけどまぁなんていうか、頑張ったよ自分。こうやって人は経験を積むのだと思いました。去年の自分より格段に文章うまくなってると思うわ。あ、100が200になるとかじゃなくて15が52になるくらいだとは思うんだけど。こういうフォーマル的な文章とか作ったことあると、学生にフォーマルな文章とか敬語とかの話するのにもなんか根拠というか自信というか、私がその話しても大丈夫感みたいなものが生まれる気がします。
 
上の文を書き終わってしばらくしたらなんか猛烈に恥ずかしくなりました。祝辞ぐらい誰でもやるやん? したり顔で祝辞作った! とかないわ恥ずかしい。と思いましたが、自戒のためにほっとこうと思いました。あ、したり顔ってのは、ドヤ顔とだいたい同じ意味だと思って使っております。いわゆる「祝辞作った(ドヤァ<半角で」というやつでした。