「できますか」って敬語で訊きたい。

柳橋先生(仮)の楽しい敬語こーざー。
「できますか」って敬語でお尋ねしたいときがあるとしましょう。たまになら、そんな事態に遭遇しないとも限らないですよね。私は先生のお仕事をしておりますが、学生に時々こっちの言葉喋れますかって訊かれます。ちょーーっとだけなら喋れますよって答えます。ただの学生なら「喋れますか」って普通に尋ねてくれますが、敬語とかちょっと勉強したりした学生は「喋れますか」って訊いていいのかしらって疑問に思ったりするようです。一応こんなんでも学生にとっては「先生」ですからね、気にしてくれているのだと思います。
さて、「日本語を喋れますか」ってのを尊敬語で訊く場合のお話です。ほんとうはどうか存じませんが「喋る」ってのがそもそも失礼な気がしますので、「話す」を使って「日本語を話せますか」の方がいいんじゃないかな、と私思います。お友達とするのがお喋り、先生とするのがお話、みたいな。どうなんでしょう、実際のところ。で、「日本語を話せますか」だったら、じゃーんと尊敬表現「お〜になる」と可能の表現「れる・られる」を使って「日本語をお話しになれますか」でよろしいのではないでしょうか、とりあえず。あるいは、「使う」を使って、「日本語をお使いになれますか」でしょうかね。
でもですね。「喋れますか」っていうのは、「喋れますか、喋れませんか」ってことですよ。「先生」とかみたいな相手にできるのかできないのか確認するの失礼かもしれないじゃないですか。「先生」って、今は私みたいなチャラいのもいますけど、昔はこう、やっぱり「先生」だったわけですよ。先生ってすごいんですよ。ほんとうは。今もたいていの先生はすごいですが。「先生」じゃなくて「社長」でもいいですけど。だから、そんなすごい人に向かって「喋れますか、喋れませんか」ってのは失礼なんですよ多分。できるのが当たり前です。だって先生なんだもん。っていう方針で、「お話しになれますか」はやめておいて、もうちょっと敬意を表したいと思います。そこで、「お話しになりますか」というのをね、使ったりするのです。喋れるのは前提で、喋るのか喋らないのかをお訊きするわけです。どうでしょう。
この訊き方は他にも使えます。例えば、「ゴルフはおやりになりますか」(できますか)。「ピアノはお弾きになりますか」(弾けますか)。「車は運転なさいますか」(運転できますか)。「お酒はお飲みになりますか」(飲めますか)。「甘いものは召し上がりますか」(食べられますか)。「なさいますか」は今年の夏前に使っていた教科書にも載っていたようなうっすらとした記憶。そして、「おやりになりますか」はお下品な気がしてきました。あとで考えます。
敬語ってのは、形も大事だけど一番大事なのは敬意だから、相手に失礼のないように頑張るっていうのがいつも敬語を使うときの基本方針です。だから、「日本語はお話しになりますか」でもいいけど、「日本語はいかがですか」とかでも、いいのです。学生さんにはなるべくいろいろ日常的に使って練習していただいて、就職してからちゃんと使えるようになっていただきたい、と「先生」はいつも思っています。学生のうちは下手でも間違っててもいいので。学生が敬語下手だからってキレるような先生はちょっとおかしいので、キレたりしない先生に向かってじゃんじゃん使ってもらいたいなーと思うのですよ。ま、柳橋先生(仮)はおとなのわりに敬語ヘタクソなので、人に文句は言えないってのが実際のところなのですが。

『枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン5。第九段。

枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン実施中です。
今日の第九段は、いわゆる「翁丸」です。私は中学校の二年生の時に習ったように思います。現代の中学生も習うのでしょうか。中学生の時にも長すぎて心折れそうになりましたが、改めて古文を打ち込んで再び心折れそうになりました。でも、こういうストーリー性のある段は長くても何とかなるんです。ほんとうに心を折りに来るのは、ものの名前を並べた段です。一般常識が違うだけで、こうもわけわかんなくなるのかっていう気持ちになりますので。

※このキャンペーンは真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。同じ言葉でも違う訳文になってたり、違う言葉でも同じ言葉に訳したり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指してテキトーに訳していきます。

※手元に全集とかがありませんので、原文はネット上の方々からお借りしました。
 

第九段(原文)「うへに候ふ御猫は」
 うへに候ふ御猫は、かうぶりにて命婦おとどとて、いみじうをかしければ、かしづかせ給ふが、端に出でてふしたるに、乳母の馬の命婦
「あなまさなや、入り給へ」
とよぶに、日のさし入りたるに、うち眠りてゐたるを、おどすとて、
「翁丸、いづら。命婦おとど食へ」
といふに、まことかとて、しれもの走りかかりたれば、おびえ惑ひて御簾のうちに入りぬ。
 朝餉のおまへに、うへおはしますに、御覧じていみじう驚かせ給ふ。猫は御ふところに入れさせ給ひて、をのこども召せば、蔵人忠隆まゐりたるに、
「この翁丸うち調じて、犬島につかはせ。ただいま」
と仰せらるれば、集り狩りさわぐ。馬の命婦をもさいなみて、
「乳母かへてん、いとうしろめたし」
と仰せらるれば、御前にも出でず。犬は狩り出でて、瀧口などして追ひつかはしつ。
「あはれ、いみじうゆるぎ歩きつるものを。三月三日、頭の辨(弁)の柳かづらせさせ、桃の花かざしにささせ、櫻腰にさしなどして、ありかせ給ひしをり、かかる目見んとは思はざりけむ」
などあはれがる。
「御膳のをりは、必ずむかひあぶらふに、さうざうしくこそあれ」
などいひて、三四日になりぬ。ひるつかた、犬いみじく泣くこゑのすれば、なぞの犬の、かくひさしくなくにかあらん、と聞くに、よろづの犬とぶらひみに行く。
 御厠人なるもの走りきて、
「あないみじ、犬を蔵人二人してうちたまふ。死ぬべし。犬を流させ給ひけるが、かへりまゐりたるとて、調じ給ふ」
といふ。心憂のことや。翁丸なり。
「忠隆・実房なんど打つ」
といへば、制しにやるほどに、からうじてなきやみぬ。
「死にければ陣の外にひき棄てつ」
といへば、あはれがりなどする夕つかた、いみじげにはれ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななきありけば、
「翁丸か。このごろ、かかる犬やはありく」
などいふに、
「翁丸」
といへど、耳にも聞き入れず。
「それ」
ともいひ、
「あらず」
とも口ぐち申せば、
「右近ぞ見知りたる、呼べ」
とて召せば、まゐりたり。
「これは翁丸か」
と見せ給ふ。
「似て侍れど、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また『翁丸』とだにいへば、よろこびてまうで来るものを、呼べどよりこず。あらぬなめり。『それは打ち殺して、棄て侍りぬ』とこそ申しつれ。二人して打たんには、侍りなむや」
など申せば、心憂がらせ給ふ。
 暗うなりて、物くはせたれど食はねば、あらぬものにいひなしてやみぬる。つとめて、御けづりぐし、御手水などまゐりて、御鏡をもたせ給ひて御覧ずれば、候ふに、犬の柱のもとにゐたるを見やりて、
「あはれ、昨日、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身にこのたびはなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」
統治畏怖い、このゐたる犬のふるひわななきて、涙をただおとしにおとすに、いとあさまし。さは翁丸にこそありけれ。よべは隠れ忍びてあるなりけり。と、あはれにそへてをかしきことかぎりなし。
 御鏡うちおきて、
「さは翁丸か」
といふに、ひれ伏していみじうなく。御前にもいみじうおち笑はせ給ふ。
右近内侍召して、
「かくなん」
と仰せらるれば、笑ひののしるを、うへにもきこしめして、渡りおはしましたり。
「あさましう、犬なども、かかる心あるものなりけり」
と笑はせ給ふ。うへの女房などもききてまゐりあつまりて、呼ぶにも今ぞ立ちうごく。
なほこの顔などの腫れたる。物のてをせさせばや」
といへば、
「つひにこれをいひあらはしつること」
など笑ふに、忠隆聞きて、台盤所のかたより、
「まことにや侍らむ。かれ見侍らん」
といはすれば
「さりとも見つくるをりも侍らん。さのみもえかくさせ給はじ」
といふ。
さて、かしこまり許されて、もとのやうになりにき。なほあはれがられて、ふるひなき出でたりしこそ、よに知らずをかしくあはれなりしか。人などこそ人にいはれて泣きなどはすれ。
――――――――
第九段(現代語訳)
 天皇陛下一条天皇さま)にお仕えしているにゃんこさまは、位があって、「命婦おとど」って呼ばれてて、すっごくかわいいから、定子さまも大事に大事になさってたんだけど(飼い猫が得るのは主人ではなく召使いだってほんとそのとおりよね)、その命婦おとどが縁側に出てうつ伏せにゃーんって寝てるところに、猫のお世話担当の馬の命婦って人が、
「あらあらいけませんわ、こちらにお入りなさいませ」
って呼んだんだけど、縁側に日が差し込んでて暖かくて気持ちいいにゃーんって、まだ寝てたから、馬の命婦さん多分ちょっといらっとしたかも。ちょっと脅かしてやろうとして、
「翁丸ー、どこにいるのー。命婦おとどを食べちゃいなさい」
と言ったの。あ、翁丸って、犬ね。で、その、翁丸がマジでにゃんこさまを食べちゃうんだと思って、やっぱり犬ってちょっと馬鹿よね、にゃんこさまに駆け寄ったから、にゃんこさまが怯えてなんか困って御簾の中に入っちゃった。
 そのときちょうど朝ご飯の時間で、朝ご飯の部屋には、定子さまと陛下さまもいらっしゃって、これをご覧になってものすごくびっくりされたの、陛下さまが。で、猫はお着物の中にお入れになって、そこらに控えていた男どもをお呼びになったら、陛下さまの秘書の忠隆って人が来たから、
「この翁丸を棒で打って、こらしめて、犬島へやってしまいなさい。いますぐにです」
って陛下さまがおっしゃったの、で、男どもがみんな集まって犬を捕まえようとして大騒ぎよ。陛下さまは、馬の命婦もお責めになって、
「猫の世話係も替えてしまいましょう、こんな人に世話をさせるのはとても気になります」
とおっしゃったので、馬の命婦はもう謹慎してしまって、陛下さまの前にも出てこなかった。犬の方は捕まって、陛下さまが宮殿の警備の武士とかに命令して追い出してしまわれました。
「ああ、可哀想に、ついこないだまで元気にぴょんぴょんしながら歩いてたのに。あれは三月三日のことだったわ、柳の冠かぶせて、桃の花の枝をかんざしにさせて、腰には刀のかわりに桜の枝で、歩かせて、あれは蔵人の頭がなさったんだけど、可愛かったわ、その時にはこんな可哀想なことになるなんて、翁丸だって思ってなかったでしょう」
とか、感傷的になってしまった(私だけじゃないわ、みんなよ)。
「定子さまのお食事の時には、いつも必ずこの辺でこっちを向いて控えていたわ、さびしいわね、とても」
とかなんとか言ってるうちに、三四日経ちました。お昼頃、犬がとってもうるさく鳴いてる声がしたから、「どこの犬がこんなにずーっと鳴くのかしら」とか聞いていると、下人が見に行った。
 そして、トイレ掃除の係の者とかいうのが走ってきて、
「大変ですわ、犬を秘書の人たちが二人がかりで殴っていらっしゃるのです。きっと死んでしまいます。こないだ犬を島流しになさったのが戻ってきたんだっておっしゃって、こらしめるんだって、なさってるんです」
と言った。心配です、ぜったい翁丸です。
「忠隆とか実房とかが殴ってる」
って誰かが言ったから、ちょっと止めさせるように人をやったら、ようやく泣き止んだ。そしたら、
「死んだから外にぽいっと捨てといた」
とか言うから、もうなんか可哀想でしょうがなかった、で、その夕方くらいになって、体とかものすごく腫れ上がってひどい有様になってる犬が、みすぼらしい感じで、ふるふるしながら歩いてるから、
「翁丸かな、最近こんな犬この辺歩いてたっけ?」
とかって誰かが言ったから、
「翁丸」
と別の誰かが呼んでみたけど、ぜんぜん聞かないで歩いてる。
「翁丸でしょ、ぜったい」
という人もいたし、
「違うって」
っていう人もいて、みんな口々にいろんなこと言ってたら、
「右近さんがよく知ってたと思うわ、お呼びなさい」
って言って呼び出したら、右近さんが参りました。
「これ、翁丸かしら」
と定子さまがお見せになった。右近さんは
「似てはおりますが、でもこの子はちょっと不吉な感じがいたします。それに、翁丸は、「翁丸」って呼ぶだけで、喜んで寄ってまいりましたが、この子は呼んでも参りません。翁丸ではないように思います。「翁丸は殴り殺して捨てました」と忠隆たちも言っておりましたし。二人がかりで殴ったりいたしましたのに、生きていたりするものでしょうか」
とか申しました、ので、定子さまもとても可哀想に思われたりしたのです。
 暗くなってきて、その犬に何か食べさせようとしたんだけど喰べなくて、だからもう、翁丸じゃない、違う犬だってことにして、それで終わりってことにしました。次の日の朝早く、定子さまが、髪をまずきれいになさって、お顔を洗われて、それから私に鏡を持たせてお顔をご覧になるので、そこで鏡を持ってじっとしてましたら、昨日の犬が柱の下にいるのが見えて、それをぼんやり見ながら、
「ああ、昨日、あいつら翁丸をすんごく殴ってたな。死んだって言ってた、可哀想、ほんと可哀想。生まれ変わって、何になるんだろう。どんな気持ちだったんだろう、苦しかったかしら、悲しかったかしら」
とついうっかり口に出して言ったら、この座ってた犬がふるふる震えて、黙って涙をぶわーっと流したから、すんごいびっくりした。じゃあやっぱり翁丸だったんだ! 昨日はずっとじーっと隠れてたんだ、と分かったら、可哀想なんだけどそれだけじゃなくてなんかすごい、めっちゃすごい、と思った。
 で、定子さまにはちょっと失礼して、鏡を置いて、
「じゃあおまえ翁丸なのね」
って言ったら、そこで「伏せ」をして、すんごい鳴いた。私は感動したけど、定子さまもとってもお笑いになった。
 それから昨日の右近さんを呼び出して、
「ほらほら! やっぱり翁丸だったみたいね」
とおっしゃったので、右近さんも「やばい可愛い」ってすんごい大笑いして、そしたら陛下さまにも聞こえちゃったらしくて、こちらの方においでになった。陛下さまは
「びっくりですね、犬なんかにも、こういう、世話になったところに帰ってきたりおぼえてて貰って涙を流したり、そういう心もあるものなのですね」
とお笑いになりました。陛下さまのところの女房のみなさんとかも話を聞いて集まってきて、犬を呼んでみたら、今度は立ち上がって、動いた。
「まだ顔とか、ほら、この辺とか、腫れてるじゃないですか。手当をさせたいのですけれど」
って誰かが言うと、
「あらあら、ついに翁丸をいたわる気持ちを言いだす人が出て来ましたわ、あはは」
とか別の誰かが笑ったり、してたら、忠隆(昨日翁丸を殴った人ね)が翁丸が帰ってきたって聞きつけて、女房の控室の方から
「ほんとうでございますかー、私にも見せてください」
と言ったから、
「あら、たいへん! 犬なんて、ぜんぜんそんなのいませんわ」
とか入口の辺の子に言わせて通せんぼさせてみたら(だって翁丸を殴った人なんですもの、見せたらまた殴るかもしれないのですわー、みたいな)、
「でもですね、私だってこの辺にお勤めしてるんですから、見かけたりするかもしれませんでしょう。そうやってずっと隠しておけるものでもないんだと存じますけど。っていうか私にも見せてくださいよ」
と言いました。
 さてその後、翁丸は陛下さまがお許しになって、もとのようにかわいがられるようになりました。やっぱり、犬が同情された時にふるふるして泣き出したりしたなんてことは、それまで聞いたこともなくて、おもしろいと思いましたが、可哀想でもありました。人間だったら、誰かに同情されて泣いたりすることも普通によくある話なのですけれどね。

『枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン4。第七段。

枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン実施中です。試験期間で忙しいので、はかどります。試験前には掃除がはかどる法則です。
※このキャンペーンは真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。同じ言葉でも違う訳文になってたり、違う言葉でも同じ言葉に訳したり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指してテキトーに訳していきます。
※手元に全集とかがありませんので、原文はネット上の方々からお借りしました。

第七段(原文)
 思はむ子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進物のいとあしきをうち食ひ、寝ぬるをも、若きは物もゆかしからむ、女などのある所をも、などか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをも安からず言ふ。まいて、験者などはいと苦しげなめり。困じてうちねぶれば、
「ねぶりをのみして」
などもどかる。いと所せく、いかに覚ゆらむ。
 これは昔のことなめり。今はいとやすげなり。
――――――――
第七段(現代語訳)
 もし、かわいいわが子を坊さんにしてるのなら、それはたいへん痛々しくって可哀想に思います。世間では、坊さんというものを、まるで、こう、そこらへんに落ちてる棒っ切れか何かのように思ってるから、なんだかもうほんとに気の毒です。坊さんは、精進料理とかいって肉も魚も使わないほんとに粗末なものを食べて、夜寝ることも微妙にやりづらいし(世間の人は「坊さんのくせに夜寝んの?」とか悪く思うし)。若い人なら何にでも興味を持つでしょう、女性がいる場所をなんで「女など忌まわしい」みたいに覗かないでいられるでしょう(っていうか女の子がきゃっきゃしてたら、ふつう覗くよね、若い人ならなおさらそうでしょ)。そういうのも世間の人はなんだか「坊さんのくせに穏やかでない」とか悪く言います。坊さん以上に修行の厳しい修験者とかは、それ以上に苦しそうです。あまりに修行が苦しいから、疲れて居眠りとかしてしまうと、
「居眠りばっかりして」「ってか居眠りしかしてないよねこいつ」
とか非難されます。どれほど窮屈で、どれほどつらく思ってるでしょう。坊さんも修験者も、たいへんなのです。
 でもね、こういうのって、昔の話。今の坊さんとか修験者は、めっちゃ楽そうです。

水は高きより低きに流れる、の話。

小学校の高学年の時、社会の時間のことでした。その日は地理的なことについて習っていたと思います。担任の先生が、突然「ここでひとつ、クイズです」とおっしゃいました。いわく、「川はどちらからどちらに向かって流れるでしょうか」。正解は「上から下に」あるいは「高い方から低い方に」です。ところで、私の通っていたその小学校は、日本の京都府京都市にありました。お暇な方は簡単な地図をちょっとご覧になってくださいませ。京都市というのは、東西北を山に囲まれた、北が高く南が低い盆地です。京都市の真ん中ちょっと東よりに、南北にずどーんと川が流れております。鴨川という川です。鴨川は京都市内を通り抜けて南の端っこで、西から流れてきた桂川、東から来た宇治川、南から来た木津川と合流して淀川になり、大阪にむかって流れていきます。それで、京都市の南の方でないところに住んでいる人は、「川は北から南に流れる」と思っている節があります。その日、先生のクイズにも、「北から南に」と答えたクラスメイトがけっこういたように記憶しております。
話は変わりますが、水だけでなく言葉も高いところから低いところに流れていくと、私は大学生の時に習いました。つまり、言葉の格が下がっていく、千年前は丁重語だった言葉遣いが現代では普通の言葉になり、千年前は普通の言葉だったものが現代では罵倒語になっている、というようなお話です。
例をあげましょう。「食事をする」ことを、私たち庶民は普通の言葉として「ご飯を食べる」と申しますね。けっして「飯を食う」ではありません。しかし、千年前の私たち庶民は、「ご飯」なんて「食べ」たりしませんでした。「飯を食」っていたのです。「ご飯を食べ」ていたのは貴族のみなさんです。千年経って、貴族に適用される言葉が私たち庶民に適用されるようになったのです。私たち庶民の格が上がったわけではありません、言葉の格が下がったのです。貴族に使っていた言葉を、庶民に適用するようになる、これは格落ちですね。現代では、ちょっとお上品さを欠く言葉遣いとして「飯を食う」、普通の言葉遣いとして「ご飯を食べる」、丁寧な言葉遣いとして「ご飯をいただく」及び「御膳を召しあがる」という言葉を用います。「御膳を召しあがる」はちょっと耳に馴染みないかもしれません。同じような言葉を並べたくてちょっと無理をして数十年前の言葉を使いましたが、現代では「御膳を召しあがる」はあまり使いませんよね、一般的には「お食事をなさる」でしょうか。
また、ペットの犬に何か食べさせることを、私たち庶民は普通の言葉として「ご飯をあげる」と申します。しかし、ほんの数十年前まで、私たち庶民はペットの犬に何か食べさせることについて「餌をやる」と申しておりました。千年前からずっとです。これはペットの格が上がったのだとも感じられますが、言葉の格が下がっています。「あげる」というのは言ってみれば敬語のようなものです。「上げる」ですからね。ペットに敬語を使う必要はあまり感じないでしょう、たいていの人は。つまり、ペットの格が上がっているのではなく、言葉の格が下がっているのです。
人称代名詞の件はお考えになった方も多かろうと存じます。「お前」と「貴様」の件です。「お前」は「御前(おんまえ、あるいはごぜん)」です。「お前」も「貴様」も同格及び格下の相手を呼ぶ時に用いますね。特に「貴様」は現代では罵倒語に近い扱いを受けているかと思います。なんで同格や格下の相手に用いる呼称や罵倒語に、「御」とか「前」とか「貴」とか「様」とか相手を持ち上げる言葉(文字?)が使われているのでしょうか。それは、「お前」とか「貴様」とかが、昔は高貴なる相手に対して用いる呼称だったからです。
私は最近このブログで『枕草子』について何度かお話をいたしましたが、その『枕草子』には「お前」という呼称がたびたび出てきます。『枕草子』でいう「お前」とは、中宮定子さまのことです。中宮定子さまとは、『枕草子』を書いた清少納言の上司にして、天皇の正式の奥さんの中でも一番位やら格やらの高い奥さんです。つまり当時の日本で一番位やら格やらの高い女性です。「お前」とはそういう人物に対して用いる呼称だったわけです。それが千年後の現代では同格か格下の相手に用いる呼称なわけですから、たいへんな格の下がりようです。
他にも例にはこと欠かないと思いますが、つまり、時間が経てば言葉の格は下がっていく、言葉も水と同じように高いところから低いところへ流れていくのだ、というようなお話でした。

『枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン3、第六段。

※これは、真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。同じ言葉でも文脈によって違う訳文になってたり、違う言葉でも同じ言葉に訳したり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指してテキトーに訳していきます。
※原文は、方々のウェブサイトを参考にいたしました。

第六段(原文)
 同じことなれども、きき耳ことなるもの。法師のことば。男のことば。女のことば。下衆のことばには、かならず文字余りたり。
――――――――――
第六段(現代語訳)
 同じことを言ってるのだけれど、言葉遣いのせいで聞いた感じ全然違う。身分とか、立場とか、いろいろ違うと、使う言葉も違うよね。お坊さんの言葉。男性の言葉。女性の言葉。庶民の言葉は、ちょっと文法があいまいで、崩れてきてる。

 ここでいう「男(おとこ)」「女(おんな)」は、庶民じゃない高貴な男性や女性のことですね。「下衆(げす)」ってのが庶民です。庶民の場合は「男(おのこ)」に「女(おなご)」でしたか、言葉遣いにはあんまり男女差がなかったのですね。で。「おのこ」は「おとこのこ」で「おなご」は「おんなのこ」とだいたい同じです。おとなでも? イエス、おとなでも。なんでおとななのに「おとこのこ」に「おんなのこ」かと言えば、成人式をしていないからです。皇族や貴族は、人生の節目節目に式をして、だんだんおとなになっていくのです。例えば、七五三とか、成人式とか。髪を伸ばし始める式をして、ちゃんと袴を穿く式をして、子ども服をやめておとな用の服を着る式をして、その時に髪をおとな用に結って、それで成人です。庶民はこういうのしませんから、何十歳になっても子どもなのですっていう扱いなのです。たとえば、「牛飼い童(うしかいわらわ)」っていう職業っていう職業がありますね。牛を飼ったり牛に車を牽かせたりという職業ですが、あんまり高貴な職業じゃなく、庶民が就く仕事です。髪や服も、よそ様に見られる職業なので主人が制服を作ってあげたりしますが、サイズは大きくても子ども服の形の制服です。あるいみ倒錯的って思っちゃう現代感覚。

月が綺麗ですねの件。

「月が綺麗ですね」っていう言い回しがありますね。遠回しな愛の告白ってやつなんですが。
今は昔、英語の授業かなんかの折に英語で書かれた西洋の小説家なんかを翻訳している若い子がおりました。若い子っていっても大学生で文学者の卵かなんかですが、気分を出すためにここはあえて若い子って言っときます。で、ですね、「アイラブユー」を「我、汝を愛す」と訳したわけです。今風に言えば「僕は君を愛しているんだ」です。ひねくれたり奇を衒ったりしないで、そのままですね。可愛いです。しかし、その若い子の訳した「我汝を愛す」を見た師匠がですね、そんな直接的な表現はあんまりよくないと言ったのです。昔の話ですから、その通りです。誰も面と向かって「我、汝を愛す」とか言いません。今だってそうですね。誰も面と向かって「僕は君を愛しているんだ」とか言いません。いや、言うかもしれませんが。でもそんなの照れるじゃないですか。いやーんです。で、師匠は「我汝を愛す」みたいな直接的な表現は好ましくない、「月が綺麗ですね」とでもしておきなさい、と言ったのです。
さてここで、この「月が綺麗ですね」ってのはどんな感じなんだろうと、この話を読んだ私は思ったのです。つまりですね。「あなたと見ているからか、今日の月はいつもより美しく見えますね」の「月が綺麗ですね」なのか。または「(ああ、君のことが好きだ、愛している、でも君のことを愛してるだなんてそんなの照れるから言えない、でもなにか言わないと場が持たない、なにか、言わないと)ああ、月が出ていますね」の「月が綺麗ですね」なのか。ということです。今これをお読みくださってる方は、別にどっちでもいいじゃんとお思いになるかもしれません。私も正直どっちでもいいと思います。文脈によるだろう、とも。
なんでこんなことが気になっているかと申しますと、ある作品の二次創作の中の愛の告白の場面において多用されるからです。そして、その使われ方が告白を受ける相手にとって難易度高すぎると思ったからです。こんな感じです。Aさんは日本の方です。Bさんは外国の方です。国際色豊かな作品なのです。BさんはAさんのことが好きで、お国柄堂々とたびたびAさんに愛を語ります。実はAさんもBさんを憎からず思っているというか、最近ではもうBさんのことが好きです。しかし、Aさんはお国柄と申しますか個人的な資質もあって、Bさんのように堂々と愛を語ることはできません。口に出してしまうと薄っぺらくなってしまうような気がいたしますとか、日本人は察する文化なのでそんなことはっきり言わないのですとか、新しい概念ですから私には使いこなせないのですとか、というか愛してるだなんて恥ずかしすぎて口にできないのですとか、理由はいろいろあるのですが、とにかく愛していると口には出しません。そしていろいろあって愛していると言わなければならないかあるいは言いたい場面が来たとき、Aさんが選択するのが、上の「月が綺麗ですね」です。続けて「今はこのぐらいでご勘弁ください」みたいなのがくっついてることもあります。Bさんは外国の方ですから、「月が綺麗ですね」って聞いたってよくわからないんじゃないかなと思いますが、Aさんの苦渋の選択なので仕方ないです。そしていろいろあってAさんもBさんを好きだから二人は両想いなのだということがきちんとBさんにも伝わり物語は大団円を迎える、というようなストーリーを、もう数えきれないほど読みました。
この場合、「月が綺麗ですね」ではなくて、「あなたと眺めていると、月がいつもより綺麗です」と言えばBさんにもAさんの意図は簡単に伝わると思うのですが、私が拝見した大抵の作品は「(好きとか言いにくいから別の言葉で表そう)月が綺麗ですね」なので、伝わりにくいような気がするのです。「月が綺麗ですね」という簡単なフレーズが「私は君を愛している」という意味であるというのは、それを知っている間柄でなければ伝わらないと思うのですよ。Bさんがそれをわからないままにしておいて二人はまとまらないエンドってのを見たことがないので、別にいいのかもしれませんが。
というわけで、この疑問とか気分とかを憶えていたらそのうち「月が綺麗ですね」って登場人物に言わせる二次創作とかしたいなっと思いますが、文才ないので面白い作品になるとは思えないのですよね。みんな、すごいな、っていうお話でした。
上に出した昔の話の、師匠っていうのが、夏目漱石です。このため、「夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳した」というそれでいいのか語弊がありそうな気もするエピソードとなって現代に伝わっております。

期末試験が延期になった件。

期末試験の季節がやってまいりました。
こちらの大学では学年暦は三月に始まります。三月一日は国民の祝日で、三月二日に一学期が始まります。入学式は二月末です。桜が咲く頃に中間試験があります。だから桜の花言葉は「中間試験」です。いやー。そして六月になったら期末試験です。梅雨が来る前に夏休みが始まります。七月と八月は夏休みです。うちの学校は八月の最終週に二学期が始まります。そして、今は期末試験の時期です。
しかしです。ただ今ここら辺りでは件の新型ウィルスが流行しているという話で、うちの学校休校になっちゃいました。いえ、来週からは再開されるんですけどね。試験が延期になると、問題作るのに余裕が生じてよろしいのですが、成績つけるのに余裕がなくなっていやです。