人が生きて死んでいくということについて何かを思わされた話。

お葬式の話を少しいたしますので、閲覧注意です。



夫の父方の祖母という方が亡くなりまして、お葬式に行ってまいりました。11月の5日頃の話です。
以前日本でお葬式に出たときは、確か10年ほど前のことになりますか、父方の祖母とか祖父とかが亡くなった時のことでした。遠方に住んでおりましたので、新幹線を乗り継いでちょうどお通夜の始まった5分後とかに到着して急いで着替えて参列したような記憶があります、それが祖母の時で、祖父の時はもっとばたばたしていたのでいまいちよく覚えておりません。祖母の時は葬儀場で、祖父の時は自宅で、式をしました。日程中は親戚が集まるので同窓会気分ですが、式次第が進行している時はさすがに悲しい気持ちになったと思います。中学生くらいのころに母方の祖父母が亡くなった時はさらに幼かったので、母が悲しそうだったことと母の兄の奥さんが号泣していたのにもらい泣きして優しい子だねと誰かに言われたことだけ覚えております。不謹慎ながら学校が休めてうれしかったこととか。学校大嫌いでしたので。
こちらでもお葬式に参列したことはあります。1年かもう少し前の話で、夫の父の弟という方が事業も奥さんもまだ小学生のお子さんも残して事故で亡くなった時でした。何もできることがなくて、ただお客さんみたいに小さく座っていました。
このたびは、亡くなった日に連絡を受け、それが日曜日だったのでその日のうちに田舎の方へ参りまして、お通夜みたいなのから入棺の儀式、葬礼、出棺と埋葬まで参列しました。学校は3日休みまして、後で補修講義がきつかったです。っていうか、忌引きの申請が面倒でした。言葉わかんないし。
こちらの葬礼は3日間行います。亡くなった日には葬礼場を借りて祭壇を設置し、方々に連絡を回して集まれる人から順に集まります。なるべく夜通し祭壇の部屋で飲み食いをします。多分ろうそくを絶やさないようにしていると思います。日本のお葬式でもお線香を絶やしちゃいけないから12時間消えないお線香とか見ましたけれど、こちらでも12時間とか消えないろうそくを見ましたのでそういうことかと。親族でなくとも故人や親族に挨拶がしたい人はこの日にも来ますが、2日目がだいたいその挨拶の日です。朝から晩まで祭壇の部屋に客が来ます。ひっきりなしに来ます。昼時と夕方が一番多いです。理由は後述します。2日目には朝から入棺の儀式も行います。3日目は午前から出棺です。出棺したら家の近所の山に霊柩車で向かいます。こちらでは山はたいてい墓所です。日本の東北地方で見たことがありますが、裏山にいっぱいお墓が並んでてご先祖様がおいでになるっていう、そんな感じです。基本的に土葬なので、場所がなくなってきたら、あるいは正しい時期がきたら、掘り返して合葬になるようです。埋葬が済んだらそこでご飯を食べて、解散です。間違いもいくらかあるかもしれませんが、そんな感じです。
葬礼場は病院の裏にあります。病気治しに来る人と駄目だった人が同じ敷地内をうろうろしていて、駐車場は共通ですし、こう、なんか、ちょっとだけ、デリカシーの欠如を感じます。いや、前から感じてました。今回は夜中に着いたので、病院の表で夜間診療の窓口の人に葬礼場どこですかって聞いて裏に回ったりして、縁起でもねぇな自分らってちょっとだけ思いました。
葬礼の日、故人や親族に挨拶に来たお客さんは、ご霊前を出して記帳して献花して祭壇と親族代表に挨拶をして、食事をして帰ります。出迎える親族は、挨拶に来てくれたお客さんには必ずご飯を食べさせます。こちらでは結婚式もそんな感じですが、何かあって来てくれた人を何も食べずに帰すなんてありえない、そんな感じです。だから葬礼場ではご飯とみそ汁が大量に用意されます。あと、なんかおかずのたぐいと、おつまみと大量の酒と使い切り食器類。テーブルもいちいち拭かなくていいように、ビニールを何枚もかけておいて、食べた後は瓶や缶などのリサイクルごみをのぞきビニールでまるっとつつんでポイです。で。そんな感じでご飯が出るので、昼時と夕食時は激混みです。回転の速い食堂みたいな。
私は今回は故人にわりと近い人物の嫁(妻じゃなくて、ここはあえて嫁)なので、ご飯出す人やりました。客の挨拶を受ける人は男性、客にご飯出す人は女性とおおよそ決まってるので、私はご飯出す人です。昔は葬礼場じゃなく自宅で葬式とかしたそうなので、ご飯も出すだけじゃなく作るところからやらなきゃいけなかったそうで、今は便利になりました。でも、私は言葉がまだよくわかんないので(だって非日常だし、普段使う言葉じゃ対応できないんだもん、言い訳)、配膳とか給仕とか御用聞きとか無理で、ひたすらおひつの前でご飯をよそってました。昔々大学の学食でご飯よそう人のバイトをしたことを思い出しました。外見からは想像もつかない速さと一定量でご飯をよそうので、周囲の親戚のみなさんに大変驚かれました。得意なんですよ、ご飯よそうの。やはり業務用のしゃもじはいいですね。一回すくってぽいっと茶碗に盛り、ちょっちょっと形を整えればいいだけですもの。家庭用のしゃもじは小さいので、何度も手を動かさなければいけなくて、大量のご飯を相手にするには不便ですね。
あ、女性が主にご飯出す人をするのに対して、いくらか思うところがないわけではありません。が、ここではまぁいいことにします。なぜなら、私の夫の実家では、男性も少しはご飯出す人を手伝うからです。大学生になった夫の従弟が、配膳やら御用聞きやらテーブルを片付けるのやら、率先して手伝っていたので、もしかしたらだんだん男女の役割分業が曖昧になっていく萌芽のようなものを感じました。声高に叫ばなくても、次世代は、あるいはその次の世代は、だんだん得意な人が得意なことをするようになっていくのかもしれません。そう思うと、特にどちらかの性に対する差別だとか大騒ぎする必要はないのかもしれないと思うようになった次第です。あ、もちろん、それなりの声で話す必要はあると思います。つまり、ご飯出す人がきりきり舞いなのに挨拶担当の人たちがめっちゃ暇そうにしてたら、ちょっと手伝ってっていう必要があるし、男性がご飯出す人になっているのに対して説教するような人がいたら、時には問題化する必要もあるんじゃないかなっていう話です。
私が今回一番衝撃を受けたのは、入棺の儀式の際です。日本では、いつも遅れて駆けつけるので、私が葬儀場に着く時にはいつも故人はすでにお棺の中に入っている状態でした。でもね、今回、故人をお棺に入れる場面を、私も見せていただいたんです。断片的にというか、垣間見というかそんな感じでしたが、遺体を拝見しました。
私は亡くなった方と一応面識はありました。お会いした時はすでにけっこうお年を召されていました。でも生きてたんですよ。でもね、死に装束を着せられてお棺に入れられる時には、確かに亡くなってました。同じ顔なんですが、もう遺体だったんです。うまく表現することができないんですが、人は生きて、そして死んでいくのだ、と思いました。誰でも死ぬんですね。そして遺体になるんですね。若い頃にも、遺体に対面した時、表現のしようのない衝撃を受けたんですが、今回の衝撃はもっと大きかったです。以前対面した遺体は、もうお棺の中でお化粧もすんでいて、お顔だけが見える、状態だったのですが、今回は身体も見たわけですし。よくない言い方だったら申し訳ないんですが、生々しかったと言いますか、ちゃんと見た、という感じでした。
その後、故人のおうちでお茶とかしたりいろいろ片付けたりする前に、前庭で子猫の遺骸が発見されました。椅子の下で死んでいました。植木の下に穴を掘って埋めました。その時もう一回、生きているものは必ず死ぬのだと思いました。