何もできなくなってからの日常を書こう。

まず最初に、濡れたものに触れなくなった。「触れなく」は、「ふれなく」ではなく「さわれなく」だが、これは、台所が片付けられないとか、ごみが捨てられないなどといった二次的な被害を生んだ。しかし例えばお風呂には入れるなど、たくさんの水は平気だったから、自分をごまかして生活を続けた。
その次に、汚れたものが触れなくて、その辺りのものが何もかも汚れたように見えだした。さすがにこれは、生活が立ち行かなくなるので、使い捨ての薄いビニールの手袋を買ってきて辺りの掃除をしたが、焼け石に水だった。
何にでも「自分ルール」とでも称すべき決まりごとがあるようで、汚いものにも水に濡れたものにも触れないが、一連の作業の最後にきれいなものにさわるのならば、滞りつつも何でもできた。これはちょっと便利なルールだった。掃除をしても台所を片付けても洗濯機をかけても、その後手を洗って箪笥から出したばかりのタオルで手を拭けば大丈夫、という具合で、洗濯物を干すのはいちばんきれいな作業だった。しかし、何をするにも重大な決意を必要とするので、家事には膨大な時間がかかり、外出嫌いでもなかったはずが他のことが何も何も何一つできなくなっていた。
人に触れなくなった時にはいよいよ悪いと思って、ここで病院に行く決心をしたが、この時には既に「動き出す」ということ自体が非常におっくうで、何もしなかった。触ることも、触られることにも、多大な嫌悪感がともなわれた為に、多分私のことを穴の開いた枕か何かだと思っていたに違いない恋人だか友人だか今となっては知れない男は冷淡になって離れていったが、私にはそれを引き留めようとする気概や気合や理由などの力がもうなかった。そんなに気力を失う前からずっとそこら辺に置いてあった安全カミソリなんてもう、汚くて触れもしなかったから、自殺や自傷や自殺未遂などということもできなかったし、しなかった。そんなに力を使いたくも、なかった。
天井を見上げて寝転がり、お腹が空いたと思ったが、コンビニに行くためには起き上がらなければならない。起き上がって服を着て、靴を履いて、玄関の扉(鉄なのだ)を開けて外に出て、三階から一階まで降りなければならない。降りてから二十メートルも歩かなければならない、二十メートルって何歩くらいだろう、コンビニの棚に陳列してあるものはどれも全部好きだけれど特にこれといって食べたいほど好きなものは何もない、そんなことより、服を着て玄関まで行くのが面倒くさかった。そんなことをするくらいならお腹が空いたまま寝転がっている方がいくらかましだった。それでいつも空腹で、しかしそれもだんだん感じなくなっていった。体重はどんどん減った。
小説を書くことや日記を書くことが食事よりも何よりも大好きで、何も書かない日は夜も日も明けないという日々は遠い過去のものになっていたが、いつ頃文章を書くのが嫌になったのかは憶えていない。きっとすごく前のことだと思った。
それからある朝目が覚めたら、実家にいて左腕に包帯がぐるぐる巻きになっていた。左腕は少しでも動かすと猛烈に痛かったが、幸か不幸か都合よく、何も、何一つ憶えていなかった。家族は私を腫れ物に触るように扱った。包帯を無理矢理はがすと、左腕には、腕全体に対する憎悪を表したとでもいうように大きな裂傷があり、縫われていた。指先は痺れたように動き難かった。後で、神経を傷つけたのだと医者に聞いて知った。
私は部屋の中で、ぼんやりと気の抜けた、公園で鳩に餌をやる老人のように過ごした。それから左腕が治って食事を人と同じ程の速さで同じ程の量食べられるようになった頃、急に思い立ってこれを書き始めた。
 
 
このお話はフィクションです。フィクションです。大事なことなので二回言いました。書いたのは二年くらい前だったような気がしますが、うちの中から発掘されたので人目に触れさせてみたいと思い、このような仕儀に相なりました。このお話は、フィクションです。