カメラの視線の話。メモ。

映画を見ていると、たまに、その場にいる人物の誰の視界にも入っていないとか、いや視界には入っているだろうけど誰も注目してないだろうって事物に焦点があたることがある。という話を、こないだうちの先輩がブログでなさってました。えっと、いわゆるカメラワークの話とか。「語り手としてのカメラ」というお話でした。誰の視点だよって疑問を抱くような不自然なカメラワークをされると、カメラの存在を強烈に意識する、それって、カメラって語り手だよね、っていうお話。実際にはもっと丁寧かつ複雑にいろんなことを話してらしたんですが。
でもさ、それはこと映画に限ったことじゃないでしょう、技術的に。
そのお話では、誰も見ちゃいない事物にカメラが向いているってのは、明らかに語り手の視線だって言ってらして、それは確かにね、間違いないよねっと、私も思います。でも、そのあと感想を述べたらお返事の中でカメラの件は絶対小説では表現できないって言ってらして、それには小説家としてちょっと反論したい。と思いました。あ、なんか振りかぶっちゃった。反論っていうか、なんか違和感を覚えましたよって言いたいだけです。返信してくださったメールの文章の引用転載の許可を頂きましたので、引用しますね。

 カメラの話は、あれは絶対小説では表現できないところだと思うんだよね。主人公の目に映っていないものがばっちり映像として映っている、というのができるのが映画で、それって小説の場合は、主人公には見えていないけど、三人称の視点で見えているものを表現するのってむずかしいと思う。

 「そのとき、彼女には見えていなかったが……」なんて書くのは興醒めじゃない?

何が違う気がしたのかって言うと、うーん、それって、小説にだってできますでしょ?って。
だってさ、小説には一人称と三人称と一応二人称とそれから機能してるとは言い難いけど四人称と、とかがあるでしょ。カメラが誰も見てないものを捉えるってのが不可能なのは一人称小説においてだけじゃないですか。三人称の視点で見えてるものを表現する、っていうのは、普通にできるでしょう。三人称の小説、とは、つまり僕や私といった人称代名詞が、全文中を通して一度も出てこない、という小説のことで、おおまかにはいいですよね。例えば、こんな感じで。

秋子は夏海の左腕に右手をそっと添えて、立っていた。二人とも、微笑んで、否、笑っている。三月の初めの頃のことだ。もう少し経てば花でいっぱいになる、まだ枯色の桜の木が、門柱を囲むように並んでいた。二人の背後には、それだけ花をつけた桃が、馥郁と匂っている。
写真立ての隣には、卒業証書を入れた筒が二人分、並べて立ててあった。

……どうでしょうか。無理がありますか? 映像化すれば、写真立てが映り、そこには二人の写真が入っていて、カメラはそこに寄って行って中に入る感じで卒業式時の記念撮影を捉え、ちょっとずれて桃の花を映す、という感じですね。筒は最初のフレームに入ってますが特に注目されない、とか、最後にカメラが写真から出てきて筒を映しなおす、とかいう感じで。(蛇足だけど、筒に注目するための文章なら最後に筒を映すし、写真やら人物に注目するための文章なら筒は最初に映るだけ、みたいな。この文章は短すぎてどっちが大事かの話には至ってないけど、小説は文章でどっちが大事かを書かないといけないです。)
特に彼女らや彼女らの視線に言及しなくても、周囲の事物に勝手に注目をしてみたりできるんですよ。と、いう話でした。
 
何か主題や問題点や定義が間違ってるので話がおかしいということを見つけられたら、こっそり教えてください。