「地の文」の話。

マリア様がみてる』の話をしようと思ったのですが、前程の話をしなければ駄目なのではないかと思って、今日は「地の文」の話です。『マリア様がみてる』の「地の文」は、「登場人物の誰かに寄り添った三人称」形をしています。この場合の、「地の文」に寄り添われた登場人物は、「視点人物」と呼ばれることがあります。ここでは一応それに倣ってみましょう。大事なのは、登場人物の誰かに寄り添った形の「地の文」は、「視点人物」の心しか分からない、ということです。これはおいおい、話を進めるとして、「地の文」の話です。
ここでは、「地の文」とは、その小説の中で「」(かぎかっこ)などで括られていない、すなわち「会話文」(登場人物の誰かが話している文章)や「心話文」(登場人物の誰かが心の中で思ったり考えたりしている文章)でない文のことを指します。ただし、『マリア様がみてる』の場合は、「地の文」が「登場人物の誰か」に寄り添った文章なので、どれが「地の文」でどれが「心話文」なのか判別しにくい形になっています。なので、ここでは、「」や()で括られていない部分を「地の文」と呼ぶことにします。もちろん、「「いばらの森」を読んだ。」などと「地の文」中に出てくる書名などは、「」で括られていますが「地の文」として見ましょう。次に書いてみたのは例文です。

夏美は見た。開いていた窓が、誰も触らないのに勝手に閉まるのを。ここは三階だ。そしてその窓にベランダやテラスはない。つまり、窓の外から誰にも見えないように閉めることは不可能なのだ。風も、なかった。窓は「ばたん!」と大きな音をたてて閉まった。そして三日月の形をした「クレセント錠」が、これも勝手にかかった。
「もう、嫌!」
秋美が叫んで部屋を飛び出していった。無理もない。この建物に入って以来、ずっとこの調子なのだ。開けたドアが勝手に閉まる。開けた窓も。閉まる時にはどのドアも窓も、ヒステリックに高い音をたて、ご丁寧に鍵までかかるのだ。ひとりでに。
――どこへ行ったって同じなのに。
声には出さず、ため息をついて夏美は秋美の後を追いかけた。

こんな感じの文章があったとして、この中で「地の文」でないのは次の二箇所。「「もう、嫌!」」と「――どこへ行ったって同じなのに。」の二箇所です。あとは全部「地の文」です。また次も例文です。

夏美は見た。開いていた窓が、誰も触らないのに勝手に閉まるのを。ここは三階だ。そしてその窓にベランダやテラスはない。つまり、窓の外から誰にも見えないように閉めることは不可能なのだ。風も、なかった。窓は「ばたん!」と大きな音をたてて閉まった。そして三日月の形をした「クレセント錠」が、これも勝手にかかった。
「もう、嫌!」
秋美が叫んで部屋を飛び出していった。無理もない。この建物に入って以来、ずっとこの調子なのだ。開けたドアが勝手に閉まる。開けた窓も。閉まる時にはどのドアも窓も、ヒステリックに高い音をたて、ご丁寧に鍵までかかるのだ。ひとりでに。
どこへ行ったって同じなのに。ため息をついて夏美は秋美の後を追いかけた。

こちらの例文では、「地の文」でないのは「「もう、嫌!」」の一箇所だけです。あとは全部「地の文」です。「どこへ行ったって同じなのに。」は、「地の文」の中に組み込まれています。これが、この例文でいうなら「夏美」という登場人物に寄り添った「地の文」ということになります。『マリア様がみてる』の「地の文」は、この形をしています。次にもう一つ例文。

私は見た。開いていた窓が、誰も触らないのに勝手に閉まるのを。ここは三階だ。そしてその窓にベランダやテラスはない。つまり、窓の外から誰にも見えないように閉めることは不可能なのだ。風も、なかった。窓は「ばたん!」と大きな音をたてて閉まった。そして三日月の形をした「クレセント錠」が、これも勝手にかかった。
「もう、嫌!」
秋美が叫んで部屋を飛び出していった。無理もない。この建物に入って以来、ずっとこの調子なのだ。開けたドアが勝手に閉まる。開けた窓も。閉まる時にはどのドアも窓も、ヒステリックに高い音をたて、ご丁寧に鍵までかかるのだ。ひとりでに。
どこへ行ったって同じなのに。ため息をついて私は秋美の後を追いかけた。

この例文は、「私」が語っている文章になっています。内容はさっきまでの二つの例文と変わりませんが、「夏美」が「私」として語っている、という形です。この「地の文」は、「一人称」という形をしています。
 
……自信満々に書いておいて日本語として間違ってたらすごく嫌だなー。でも、私が習ったのは、こんなんだったような気がするし。まいっか。今日はこんな感じで。『マリア様がみてる』の話はまた明日ー。