情緒的な主張、「ごん狐」の結末。

新美南吉童話集 (岩波文庫) 千葉俊二編『新美南吉童話集』(岩波文庫、1996年初版発行)
 
「ごん狐」というお話の話をしましょう。
ひとりぼっちの狐「ごん」は、川でうなぎを捕っている「兵十」と遊ぶつもりでうなぎを逃がしてしまいます。「兵十」は死にかかっている母親にうなぎを食べさせることができず、母親はそのまま死んでしまいます。嘆き悲しむ「兵十」をみた「ごん」はちょっと心を痛め、罪滅ぼしのつもりで「兵十」に行商の「いわし屋」から盗んだいわしを届けます。「いわし屋」が泥棒は「兵十」だと誤解して、「兵十」はひどい目に遭います。以来、毎日「兵十」のもとに、「栗や松たけ」などが届けられます(裏口に勝手に入れてある)。「兵十」は村人の「加助」に話し、「神様」のしわざだと納得します。「ごん」はなんだか納得がいきませんが、しかし次の日も「栗」を持って行きます。狐が裏口から中に入るのを見た「兵十」は、「うなぎ」「いわし」に引き続いて「いたずら」をしに来たと思い、「火縄銃」で撃ちます。倒れた狐の側に、「栗」がかためて置いてあるのをみつけた「兵十」は、「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」と気づき、言います。「ごん」は「ぐったりと目をつぶって」うなづきます。
ここで、問題がひとつ。「ごん」は死んでしまったのか、否か。
結末部分の記述はこうです。ここから引用です。
 
そのあくる日もごんは、栗をもって、兵十の家へ出かけました。兵十は物置で縄をなっていました。それでごんは家の裏口から、こっそり中へはいりました。
そのとき兵十は、ふと顔をあげました。と狐が家の中へはいったではありませんか。こないだうなぎをぬすみやがったあのごん狐めが、またいたずらをしに来たな。
「ようし」
兵十は、立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
そして足音をしのばせてちかよって、今戸口を出ようとするごんを、ドン、とうちました。ごんは、ばたりとあたおれました。兵十はかけよって来ました。家の中を見ると土間に栗がかためておいてあるのが目につきました。
「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。
「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。
兵十は、火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。
 
引用はここまでです。
「ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました」からは、「ごん」が死んだのかどうかはわかりません。はっきりと「死んだ」とは書かれていないからです。しかし、次の「兵十は、火縄銃をばたりと、とり落しました」は、自分に贈り物をくれていた「ごん」を撃ってしまった「兵十」の、取り返しのつかないことをしたという愕然とした気持ちを表しています。「青い煙が、まだ筒口から細く出ていました」は決定的で、「青い」は死者の青ざめた色に通じますし、「煙」は儚くすぐに消えてしまうものですから、すぐにも消えてしまう「ごん」の命を表しています。「細く出てい」るのも、今にも消える命の弱々しさの表現です。「筒口」から「煙」が「細く出てい」るのは「ごん」から命が「細く」出て消えてゆくということです。「まだ」というのは、今はまだ「うなず」いている「ごん」だけどもうすぐに死んでしまうそのわずかな猶予の時間を表しています。これらは全て「ごん」の死を暗示していると言えるでしょう。秋の冷たい風がそよとでも吹いたら、「煙」はあっという間に消えてしまい、「ごん」は死んでしまうのです。
それに、この作品は、悲劇的な結末であることによって、「お話」として成立しています。「ごん」が死ぬからこそ、「ごん」と「兵十」のすれ違いによる悲劇が、すれ違いの悲しさが、「ごん」の哀れさが、伝わるのだ、と、いうことです。
「ごん狐」の話を教室で扱うと、一定数の子どもやおとなが、「ごん」は死んでいないと、言うのだそうです。実際私は、いくつかの教室で何割かのおとなが、「ごん」は死んでいないと、主張する場面に遭遇しました。彼らに理由を聞くと、「ごんが可哀想だから」とか、「これからは兵十といっぱい仲良くしてほしいから」などといった答えが返ってきます。これは、とても感情的、情緒的で、希望に満ちた答えです。そして、説得力はありません。いくら感情に訴えかけられても、現に文中には「ごん」の死を暗示する表現が充ち満ちていて私はそれをみつけてしまっているので、「ごんが生き残って兵十と仲良く暮らしたら素敵だな」とは思えても、「ごんは生き残って兵十と仲良く暮らしたに違いない」とは思えません。「ごんが死ななければいいのに」とは思えても、「ごんは死ななかったに違いない」とは思えません。感情論では説得できないのです。
「ごんが可哀想だから」「ごんは死ななかった」、こういう考え方をする人たちは、多分とても優しい心を持っているのでしょう。しかしその優しさは、辛いことから目を背ける弱さに繋がってしまうのではないでしょうか。「ごん狐」は、読後に、もの悲しい、持って行き場のないやるせない気持ちになるお話で、私は少し苦手ですが(というか少し嫌いですが)、そのお話が読者に要求する辛さには、向き合わなければならないと、私は思うのです。
それに、マンガの世界でも、人気のあるキャラクターが死んだ時に読者が認めなくて、後で「実は生きていた」みたいに復活することがありますが、その時点で大概のマンガは駄目になっています。例外はなくはありませんが。
一時期、童話の結末を、残酷だという理由で、拒否するおとながたくさんいたらしく、最後に狼をやっつけない「三匹の子豚」や「七匹の子山羊」などが盛んに作られたことがあります。しかしそういうのも結局子どものためにはならないのではないか、とも思います。童話は、時々やたらと不条理だったり怖かったりグロテスクだったり残酷だったりして、夜布団の中で得体の知れない不安のような何かを感じながらストーリーを思い返す、などの記憶を持つのはひとり私に限ったことではないでしょう。童話の恐ろしさは、子どもにとってひとつの魅力なのだと、思います。