呼び名の問題。

主に学校で行われる「いじめ」を原因として自殺する人が増えているのですね。「いじめ」の被害者となって自殺する生徒か先生とか、その責任を追及されて嫌になった校長先生とか。そしてなんですか、大臣に手紙を送った人もいたとかそしたらマスコミが大騒ぎしたので真似した人が続出したとか最初の人も二通目を送ったとかその二通目が一通目とは違ったおもむきの手紙だとか最初に送られた手紙がマスコミ大騒ぎになったお陰で犯人扱いされて「いじめ」がエスカレートした中学校が絶対どこかにあるはずだとか。
そんな中、それらの諸問題はこっちの棚にしまっておいて、今日したい話は、「いじめ」という呼称が私に与える印象、の話です。冒頭から「いじめ」と「」(かぎかっこ)つきで記述していますが、これにはわけがあるのです。
それは、「いじめる」という言葉の持つあまりにも軽い感じに、嫌な気分がするということです。「いじめる」って、例えば相手を害しようという意図の全くない恋人同士のうちの彼氏の方が彼女のほっぺたをつつく、みたいな行為に対しても適用されちゃうわけですから、どれほど軽く思えるかは分かっていただけるでしょうか。他にも、お互いに信頼関係がないと成り立たないSMプレイという性行為の一種を行うに当たってされる方がする方に「もっといじめてっ」って言う、こういう場面においても適用されちゃう言葉なわけです。もうどれほど軽い印象を与える言葉かは分かっていただけたでしょうか。「いじめ」とは、およそ強者が弱者に対して加える攻撃のことですから(ここでいう強者が社会的にどのくらい強いかはここではあまり関係ありません。要するにそれより弱い者との関係を問題にする上での「強者」ですから、丁寧に言うなら「便宜上強者」とでもなるでしょうか)、可愛かったり好きだったりする相手に行うスキンシップみたいな行動とは明らかに一線を画す種類の行為なので、「いじめる」という言葉をあてることに私はとても抵抗を感じるのです。しかし現在「いじめ」と呼ばれている行為に対して他に適当な一語を思いつかないので、取りあえず「いじめ」と、「」をつけて呼んでいるのです。完全に納得はしていない気分とでも言いましょうか。「「いじめ」を行う」という行為に対して「いじめる」という言葉をあてるのが嫌な気持ちを述べました。

次にもっと嫌なのは、「いじめ」を行っている者たちを「いじめっこ」、「いじめ」を受けている者たちを「いじめられっこ」と呼ぶこの呼称が、虫酸が走るほど嫌です。なんだよその悠長で牧歌的な呼び名はよ、というわけです。「いじめ」は暴力ですよ、恐喝や脅迫や暴行や、リンチ(集団で暴行)やレイプ(強姦)なのですよ。「いじめ」を行う者は「いじめ」の首謀者とかリーダーとか実行者とか、つまり加害者と呼ぶのが正しいように思いますし、「いじめ」を受けている者たちは「いじめ」の被害者でしょう? だって害意が存在して害を加える者と被る者がいるのですもの。ものすごく間違ってはいないと思うんですけどね、自分では。
でもね、この「いじめ」の被害者とか加害者とかいう呼び方も、私基準では子どもにのみ当てはまるのですよ。えーと、つまり、おとなが同じ事を行っていたらそれはもう「いじめ」および「いじめ」の被害者加害者という呼称も、悠長で牧歌的だと、思うのです。先日学級の児童だか生徒だかに加えて担任の教諭までもがひとりの児童だか生徒だかに「いじめ」を行い、結果その児童だか生徒だかが自殺するという事件が起こりましたよね(確か)。これは「いじめ」を始めとする教育現場で起こりがちな事件をことごとく隠蔽している印象のある(もちろん私がそういう印象を受けているだけのことですが)マスコミにしてはまずまず大きく取り上げましたよね(確か)。その折りには「教師によるいじめ」などという見出しを何度か見ました。私は怒りっぽくて狭量な人間ですから、その見出しが気にくわなくて仕方なかったのです。児童生徒はまだ子どもなので、彼らの行った「いじめ」について「いじめ」という特殊な言葉で表現しても平気なんですが、教諭はおとななので、彼の行ったことは「暴力」に他ならない、と、無根拠ではありますが思えました。つまりその見出しは教諭による暴力を児童生徒による暴力と並列にして罪が軽く見えるような見出しを付けられているような、印象を受けた、ということです。
子どもの方に注目していると、子どもの行っている暴力的な行為に対してそれは暴力に他ならない彼らは加害者と呼ぶべきだと思い、おとなの方に注目していると、おとななのに子どもの犯罪と同列化してると思い、一貫性がはなはだないことに、自分で今気付きましたが、嫌なものは嫌なので、しかたないです。
あ、その問題とは関係ないですけど、前から思っていたんですが、「死ぬ勇気があれば生きることなんて簡単だ!」とか「死ぬ勇気に比べれば生きる勇気なんて微量だ」とか、そういうことをいう人って、死にたくなる気持ちについて自分の身に置き換えたりつまり親身になったり理解しようとしたり真剣に考えたりしてないんでしょうね。かく言う私は二〇年近く昔、同じように思っていました。「死ぬことはとても勇気のいることだし、苦しいことだ。どんなに辛い人生でも、死ぬことに比べれば楽だし、死ぬほどの勇気があるのにどうして生きていこうと思えないのだろう」。今にして思えば、その時分の私は、生きるということのつらさや苦しさや、生きていくということに伴う膨大な勇気や、終わりが見えないということの苦しさや、終わりが見えないのに無駄かも知れないのに頑張らないといけないことの絶望に、気付いていなかったのだなあと、幸せな子どもだったのだなあと、思います。
だいたいこういう無神経なことを言う人たちの年代って限られていますよね。統計採ったわけじゃないですが、印象として。それでその子どもの世代が小さい頃はその無神経な発言を鵜呑みにして育ち、大きくなって矛盾と無神経さに気付いて反感を持つか嫌になってしまうか、みたいな。無神経だから死にたいとは思わない、無神経だから繊細な周りの人間に死にたくなるほどのダメージを与える、無神経だから死にたくなってる人間に(それが自分のせいだというのに)さらに無神経な発言を繰り返す、繊細な周りの人間がほんとに死ぬ、みたいな。これ以上言ったら攻撃になりそうな予感がしました。やめましょう。それにしても明言を避けると文章って霧の中に入った心持ちがしますね。
そんな感じで、今日はまたこの辺で。