『マリア様がみてる』に注釈をつけようの会(仮)、第二回。

マリア様がみてる 1 (コバルト文庫) 今野緒雪マリア様がみてる
 
今日は、リリアンの出来たばかりの頃に微妙に触れようかな、と、思います。
引用です。
・明治三十四年創立のこの学園は、〔…〕(六頁一一行目)
この『マリア様がみてる』シリーズに登場する学校は「リリアン女学園」という名で、創立された時から現在まで女子校です。この学校が出来たばかりの明治三四年といえば、時代はまさに女子用の学校の多く創立される時期にあたっています(多分)。それは、明治三二年、女子教育用の法律が男子用の学校令の一部であった「中学校令に基づく高等女学校規定」から「高等女学校令」と独立した法律になった直後だから、です。女子教育用の法律がそれなりに整った時期、くらいのいい方が出来るでしょうか。
女子用の学校は、明治四年に官立の女学校が東京に作られたのが初めだそうです。今問題にしている明治三四年頃といえば公立のが各道府県都道府県ではまだありません、東京この時代は「東京府」です、萌え)に作られて、私立のが東京や大阪近辺を中心に作られていった時代ですね(確か)。で、この私立のが、ミッション系がはなはだ多かったみたいです。というか、私立といえばミッション系(ちょっと違う)。
ミッション系というのはキリスト教会が運営していたというところで、尼さん(シスター)がいたり教会が併設されていたり、授業に宗教的な科目があったり、規律はある種厳しいけど公立みたいな厳しさではなかったり(つまり、規則正しい生活とか神への信仰とかはそれなりに問うけど服装規定が緩かったり)、そんな感じで、また、わかりやすい西洋風とかさっきもいった服装の自由とかそういったことからその時代の少女の憧れを集めやすかったみたいです。本文の学業も、教育課程なども独自の科目があったりとか、修身とか徳目とかよりも外国語とか科学とかが充実してるとか。
 
引用です。
時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日(六頁一五行目)
そんなわけで、明治三四年に出来たリリアン女学園は、大正期に各市町村の公立女学校が増えた時期を通り過ぎ、武蔵野は山の手だか田舎だかだから大正一二年の関東大震災の折りにも倒壊も焼失も免れ、もとは華族用のお嬢様学校ということで暗黒の不況時代昭和初年代を通り抜け、キリスト教とモラトリアム製造所たる女学校に若干風あたりの強かったけれども産んで増やせる良妻賢母を製造するということでまあまあ許されてたけれども戦時体制の中で勉強なんて全然出来なかったことはきっとここも例外ではなかっただろう昭和一〇年代をも通り過ぎ、太平洋戦争終結直後ごたごたと学制改革が行われて女学校が廃止され多分その時に「私立リリアン女学園」という名前に変わったであろう戦後期、全国の女子校が次第次第に共学へと変わっていく昭和時代、女子高校生の以上に注目される平成初年代を通り過ぎて、今日に至るのでした。
 
明日はこの続き、箱入り出荷のお嬢さま、について、少し語りたいですが、今日はこのくらいで。おやすみなさい。