マリアさまの心、それは青空。

マリア様がみてる 1 (コバルト文庫)
今野緒雪マリア様がみてる』。
ごきげんよう。なんて素敵な挨拶。
今日は『マリア様がみてる』に注釈をつけようの会(仮)の記念すべき第一回目です。独りでもコーネリアス、独りでもTMR、独りでもカントリー娘、独りでも会(ちょっと違うか)。まずは冒頭の一行です。
使用テキストは『マリア様がみてる今野緒雪(こんのおゆき)(集英社コバルト文庫、確か五刷くらいですがノートを忘れたので発行年月日は明日埋めます)。

ごきげんよう」(確か八頁、一行目)
マリア様がみてる』は、ミッション系の私立女子校、「私立リリアン女学園」を舞台に高校生の女の子たちが繰り広げる様々なドラマを描いた小説です。「リリアン女学園」には、現代では特殊な部類に入る挨拶が存在します。それが「ごきげんよう」です。彼女らは、朝も昼も夜も帰り際にも、「ごきげんよう」と挨拶をします。先輩に対しても後輩に対しても、同級生に対しても先生や来賓に対しても。
この「ごきげんよう」は最も万能便利な挨拶といえます。それは何故か。今日の話はここに終始するような気がします。
よくつかう主な挨拶といえば、「おはよう(ございます)」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」「お疲れさまです」、といったところでしょうか。朝の十時までは「おはよう(ございます)」、十時を過ぎたら夕方六時までは「こんにちは」それを過ぎたら「こんばんは」、去り際別れ際には「さようなら」と私はどこかの「常識」とやらで教わりました。しかし、どこかの「常識」は、そのどこかの「常識」に過ぎないので、別の場所には別の場所の「常識」が存在します。私が得た別の「常識」では、「おはよう(ございます)」と「こんにちは」は同じでしたが、夕方六時過ぎは「こんばんは」でした。また別の「常識」では、帰り際には「お疲れさまでした」、帰り際に「お先に失礼します」が「常識」の所もありますね。また、場所によって「おはよう(ございます)」の時間帯が変わることもあります。所属してる人員が皆同じ時間に登校して出勤してという場合は、朝は「おはよう(ございます)」帰る時には「さようなら」でいいですけど、そうでない場合にはどうしようかといった悩みが各小団体で繰り広げられ独自の解決がなされます。曰く、「その日最初に会った時がおはよう(ございます)」「その日最初に入室した時がおはよう(ございます)」「部活は午後からに決まっているし午後の挨拶はこんにちはだから、最初に会った時がこんにちは」。放送業界では「その日最初に会った時がおはよう(ございます)」と決まっているみたいです。これらは人は一律に朝会って夕方別れると決まったわけではないというような進化を遂げた社会を反映している訳ですが、早くもないのに「おはよう(ございます)」を使う放送業界に携わる人たちや学生やコンビニエンスストアの店員などに苦言を呈する「常識」人も一定数いますね。
そんな小難しくもローカルルール満載の挨拶ですが、これらのローカルルール(それはもう学校単位で学校内なら部活単位で存在するので、しきたりの違う場所に移動すると大変で大変で)を一気に無化するローカルルールが存在するのです。それがこの、「ごきげんよう」。「ごきげんよう」は、朝も昼も夜も、会った時にはいつでも使え、別れ際にもまた使えるという、万能の挨拶なのです。
もともとは明治時代から大正、昭和にかけて、女学校に通う女学生が使っていたとおぼしき挨拶ですが、ちゃんと広辞苑にも載っています。曰く、「出会った時や別れる時に、相手の健康を祝しまた祈って行う挨拶」。「おはよう(ございます)」とかとは違って辞書にも認められたこのパワー。いやいや。事実「リリアン女学園」の生徒たちは、朝も昼も夜も夕方も、学外でも、「ごきげんよう」を使います。ローカルルールになんて煩わされないのよ、です。しかも、その使い方はナチュラルで、「ごきげんよう」に比べれば一般的な挨拶との齟齬もあまり問題とされていないかに見えます。いや、大した問題ではないのかも知れませんが。
リリアン女学園」の生徒や元生徒にとってこの「ごきげんよう」という挨拶の持つ力(即物的に有益さといいかえてもいいですが)は、便利とか以前の問題です。つまりこの「ごきげんよう」はただの挨拶ではないのです。私は冒頭でこの挨拶は現代では特殊といいました。そのために、「リリアン女学園」の生徒や元生徒はこの挨拶を使うことによって結束を高めることが出来るのです。学外で同じ学校の生徒に会った時、「ごきげんよう」という挨拶を交わすことで少し嬉しくなる、とか、生徒が年配の女性に「ごきげんよう」と挨拶されて、この方も元リリアンだわと少し嬉しくなる、とか。これはまた学校への帰属意識にもなり得ます。それがいいことか悪いことか、外から見たところは脇へ置いて、本人たちにとって、また学校にとって、いいことですね。
この「ごきげんよう」は、各巻の冒頭で私たち読者に挨拶してくれるかのように、毎回登場します。私たち読者は毎回冒頭で「ごきげんよう」「ごきげんよう」と交わされる挨拶を見ながら作品の世界に入ってゆくことが出来るのです。小説の世界観をこれほど端的に的確に表す言葉も他にないでしょう。登場人物たちも、どの巻でもいつでも「ごきげんよう」と互いに挨拶をしあいます。「ごきげんよう」という挨拶自体が物語を前に進める役割を担うことさえあります。「ごきげんよう」は、この『マリア様がみてる』という作品にとってほとんど最も重要な言葉なのです。
 
という感じで、長いですが今日の話はここまでです。おやすみなさい。