あけましておめでとうございます。

この日付の文章は実際は十日に書いていますが、一月一日に何のご挨拶もない日記というのは諸事情あるとは言え寂寥感に耐えかねて、ついつい捏造してしまいましたのですことよ。日記にご挨拶を書きたいおとめ心。
ところで今、「捏造」って漢字で書くつもりで入力して変換キーを押したら、「ねつ造」って変換してくれて、ATOKに対する好感度が著しく下がりました。ええ、私だって出し抜けに「夏海さん、『ねつぞう』って漢字で書けて?」と聞かれて「ええ、書けてよ」などと答えられるかと言えばもちろん答えは否です。今じっと画面を見たのでもう書けるようになりましたが、さっきまでは書けませんでした。確かに難しいです、「捏造」。書けない大人もたくさんいるでしょう、書けない子どもはもっとたくさんいるでしょう。熟語として読めない大人もたくさんいるかもしれません。でもね、だからといって「捏造」という熟語を人目から隠していいものでしょうかね。難しいから読めない、読めないから隠す、では、誰も読めるようにならないではありませんか。
この問題は突き詰めれば「国語改革」の問題に発展しますね。「漢字の混ぜ書き」と言われる問題です。私がここで端的に自分の旗色だけを表しておくなら、私は「漢字の混ぜ書き」には難色を示す方向、です。熟語は熟語として漢字で書いてこそ、熟語としての意味が出るんじゃないでしょうかと思っているのでね。それに、「ねつ造」っていう表記、知的じゃない感じがしませんか? 「ねつ造」の方にしたところで、「感じ」なんてしれっと使ってるこの文章に知性を云々されたくないかも知れませんが。
一例として、私が常日頃テレビや新聞の見出しを見ながら知性を感じないと思っている表現を挙げておきますと、「警ら」「ねつ造」「破たん」「憂うつ」といったところです。他にも枚挙に暇がないほどありますが、よく見るのはこの辺りでしょうか。「警邏」「捏造」「破綻」「憂鬱」って書いた方が知的だなぁと思っちゃうんですよね。見慣れれば読めるでしょう、このくらい。と思うのは、漢字が好きな者の奢りでしょうか。
年始からでっかい声で偉そうなことを並べ立ててしまいました。ごめんなさい。

参考にさせていただこうと思ったサイトはこちら
「詩歌の里」さま(http://homepage1.nifty.com/vine/index.html
ですが、あんまり参考にはさせていただかないで書きました。
私はしばしばすごく偉そうなものの言い方をいたしますが、私以外の方が偉そうな言い方をなさっている時にはその言い方が気になってならないということに今気づいたので、今年の抱負に「偉そうなものの言い方をしない」というのを付け加えておきたいと思います。