集中講義一日目。それとは関係なく、『細雪』九回目。

細雪』九回目、上巻第四章(二五頁−三一頁)。

○今日は、雪子が縁遠いのを前提に、今回持ち上がった見合いの話。

○使用テキスト:谷崎潤一郎細雪(上)』、新潮文庫版。

○梗概
妙子と奥畑の最近の様子は、既に雪子の目にも入っていた。雪子としては順番などと言っていないで先に一緒にしてやればよい、ということだが、幸子や世間としてはそうは行かない。できるだけ早く雪子を片付けなければというところである。雪子が縁遠いのは、さらに「未年の女は縁遠い」という関西の町人の俗信(迷信)のせいでもある。
蒔岡家の人間は雪子も含め、条件を少しずつ緩和して最早誰もうるさいことは言わない。初婚とか年齢とか、子どものあるなしとか。雪子的には、子どもがいるなら可愛い女の子ならそれでいい、あとは何の条件もない。
そんなところへ持ち込まれた瀬越との見合いは、万事行動の遅い幸子と本家のお陰で甚だ滞るが、井谷が急かしに急かして、数日内に見合いというほどでもない簡単な席が設けられることになる。が、雪子はお嬢様なので、見合いという一生のことを急かされてばたばたと行うということでまた印象を悪くする。

○語釈
(二六頁)
・未年の生まれ(四行目)
どうしてもわからない。いつ頃からいつ頃まで言われていて、何が理由で未(ひつじ)年が忌まれるのか。丙午(ひのえ)みたいな伝説的な何かがあるのか。
・丙午(四行目)
ひのえうま。十干十二支のひとつ。十干は五行(木・火・土・金・水)それぞれに上下(兄(え)・弟(と))をつけて意味を付与したもの。ひのえうまは、午(うま)という十二支中最も荒ぶる干支に火の兄(ひのえ)という最も荒ぶる属性をプラスした卦なので、明らかに女の子の干支にはふさわしくないよね。男を食い殺すとか尻に敷くとか、色々いわれている。八百屋お七が丙午だったというのは実は後付で、仔細に調べるとそれは間違い。火をつけて江戸全部を火事にしちゃったんだから間違いなく丙午だろうとか、それくらいのことなのだと。近年だと一九六六(昭和四一)年が丙午に当たり、日本の年齢別人口のグラフはあからさまにその年だけがくっと落ち込んでいる(みんな控えたんだね、女の子が生まれると縁遠くなると思って。そして翌年はびっくりするほど人口が多いのだ、これが)。
(二七頁)
・西洋物の音楽(一六行目)
雪子は大正後期に女学校に通っていたと思われる。音楽で西洋物を教えていた頃である(というか、体育とか音楽とか、日本式の良妻賢母的育成的な画一的教育から、学校毎の独自の教育になってた頃かと)。習い事では裕福な家庭なのでピアノなど教養として身につけてもいただろう。サロン的な音楽会なども盛んに行われていたであろう。
(二八頁)
・タキシー(二行目)
昭和元年大阪に一円で定区間を走るタクシー、通称「円タク」が走行を開始。現代ではタクシーとは道路を走行して客を拾う「流し」を指し、タクシー会社に電話をかけて呼び出すものは「ハイヤー」と呼ばれている(田舎へ行くと何でも「ハイヤー」だったりするが)。

○考察
☆一般人的「百合」的姿

 子供は可愛い顔だちの女の児
 自分が本当に可愛がることが出来る(どちらも二六頁)

細雪』は四姉妹の物語であると、言われる。即ち、鶴子、幸子、雪子、妙子、の四人が仲良くしたりたまには確執もあったりしながらだらだらと暮らしている、という物語である、と言われるということだ。でもね、『細雪』には四姉妹のほかにもキャラクタが設定されていて固体識別できる女の子が何人も登場するよね。例えば、お春だとか、悦子だとか。
それで、『細雪』は「姉妹の物語」だから「百合小説」認定にはならないとか、そういうことは言いたくないのだ。
雪子の悦子に対する過剰な愛情が、「百合小説」認定レベルなのではないかと。つまり、雪子は女学校文化風俗の様式化の進んだ時代に女学校に在学し、女の子は男の子とではなく女の子と仲良くする、というような文化に染まっているのではないかと。それで悦子が可愛くてならず、悦子と別れるかと思うと結婚なんてしなくてもいいかもしれないとまで思え、でも多分可愛い女の子が婚家にいればそれを可愛がって日々過ごせそうだとか思い、本家の男の子たちには何の愛着もないなどと思う。
この姿は、「レズビアン」とかそれを含むあるいはそこに至るかも知れない「女性同性愛」を巧妙に避けて、尚且つ、女の子に対する愛着を明確に表していると、見ていいよね。それは現代の女の子たちにも通じる姿かも知れなくて、多分「一般的」な「百合的な趣味嗜好を持たない人」には受け入れられるやり方ではある。「同性愛者」は忌避されがちだけれど、「異性愛者、でも同性には非常に優しい(本当は愛着や偏愛を持っていることもあるが)」は、受け入れられがちだ、誰にでも。