『荒野』主に第一部。

炬燵が稼動しました。天国のようですが、ひとたび入ると学校はおろかコンビニも、いや、そもそも玄関が、というかトイレすら遠すぎて、動くことができません。これは天国に見せかけた地獄なのでしょう。
 
最近、桜庭一樹の『荒野』を丁寧に読みたくなって、真面目に読んでいるのですけど、よく見ると文章が可愛い人ですね。私の文章は「もの」とか「私は」とか、このブログとかだと「というか」とか、あと「あと」とか「とか」とかがとても多くて馬鹿っぽいですが、冬にもたまに風邪をひくのでばかではありません。桜庭一樹の場合は「ところ」と「見る」が大変に多くて、可愛い感じです。あと、『製鉄天使』を読んでいると、岩井志麻子を思い出します。中国地方だからというだけではなくて、血まみれな感じとか、地の文の様子とかが。
 
『荒野』で気になるのは、やはりなんといっても生理の話です。女の子って、生理を完全に隠蔽したいと思っている、と思うのですよ。毎日のようにえっちをする相手がいれば話は別ですね、あと子どもを持つことを検討している人も、別ですよね。えっちをする相手には生理の日を公開しないと不都合が生じる恐れがありますし、子どもについて検討を始めるなら当該女性の身体の周期について検討する二人の共有情報にしておかないと実施に困難が伴いそうです。
『荒野』には生理について荒野(人名)が直面するシーンが二回出てきます。一回目はクラスメイトが隠し持っていたナプキンを廊下で落とし、それを拾った男子の群れが「おさる」のように興奮し蹴って遊び始める、荒野がそれをやめさせるが、ナプキンを拾ったところをトイレから出てきた意中の男子悠也に見られて真っ青になる、というシーン。ここでは、生理は、完全に隠蔽される対象になってます。クラスメイトはナプキンを隠してトイレに駆け込もうとするし(失敗したけど)荒野は意中の男子の中で自分と生理が関連付けられたという事実を受け入れがたくて「尼になろうかと思う」とか言い出すのです。廊下にいた男子の群れは、普段は完全に隠蔽されて興味津々であるにもかかわらず蚊帳の外に置かれているところの生理の片鱗が見えちゃったので、異常な興奮状態になっちゃった、というところでしょう。
もう一箇所は、荒野が生理痛で昏倒しそうになっていつもの薬を飲もうとするが、父親の再婚相手によって薬は捨てられており、途方にくれているところへ先の悠也(再婚相手の連れ子であった)が通りかかり、鎮痛剤を買ってきてくれるよう頼む、というシーンです。ここでは性的な自分の身体について、男性である悠也より父の再婚相手の方により知られたくない、というこれもまた思春期な女の子の気分が描かれています。自分が生理痛で苦しんでいるとか、というか、自分に生理があることとか、あ の 女 の 人 に知られるくらいならこの男子に知られた方がいくぶんましだ、という。
さて、あんまりマンガや小説で生理が描かれることってない気がするんですけど、どうでしょうね。女性向けの作品なら、あまりにも隠蔽すべきものだから、あるいはフィクションの中でまでそんな忌まわしいものに触れたくない的心や配慮から、女性が作った作品なら、作り手の心情は察することはできませんが、アレだ、無意識に排除、みたいな。隠蔽し排除することが多すぎてあるいは長すぎて、自然と避けて通る、的な。男性向けの作品なら、成人向けの作品でたまに、ごくたまに見かけます。男性が作った作品なら、よくわかんないから描きにくい、とかはありそうですが。身近な女性に聞いたところで、実感としては捉えにくいでしょうし。女性が股間を強打した男性について実感として捉えにくいのと同じように。
私が『荒野』すごいな、と思ったのは、まさにこの生理の話で、隠蔽することについて、描かないで存在自体を隠蔽するんじゃなく、隠蔽する女性や隠蔽される月経を描く、というあたりです。こう、卑近な感じでは、中学生くらいの頃を思い出し、それだけでなく月経が隠蔽されるに至った日本の近代の女子教育とかに思いをはせたりできそうな感じ。できるかな?
 
最近、コナンの映画いっぱい見返しますが、高校生の女子キャラに当然のように生理がないですね。一応子ども向けということになってるマンガだし、とか、描いてる人男性だし、とか、いろいろあるでしょうが、高校生の女子キャラがいつも海とかプールとか温泉とかに躊躇なく簡単に入れて、旅行にも躊躇も憂いもなく参加できてうらやましい限りです。