その言葉にまつわる意識や背景の共有。

もしメーテレさんとか「女魂」とか及川奈央さんとかの関係者とかファンとかそういう方が偶然この文章を発見されたら怒られるかも知れません、あまりの情報の正しくなさと私の独善的なものの言い方に。世の中って偶然どんなことが起こるか分かりませんから先に謝ってしまいます、ごめんなさい。
名古屋には「メーテレ」というテレビ局があって、『女魂』という番組を深夜に放送しています。たまに。昨夜私は偶然それを見ました。終了直前の数分間だけ。毎週恒例「女川柳」のコーナーだったみたいです。メーテレの『女魂』サイトによると、この「女川柳」は視聴者から募集してそれを及川奈央が週に一句だけ詠み上げるみたいな感じです。どうやら。
前置きが長くなったんですが、昨夜私が見たのは、
お題が「港の女」、
川柳は「かざぐるま 私はあなたの 港まち」
と、いうものでした。
前置きが長い割に言いたいことはどうでもいいことなんですが。このね、「かざぐるま」という「もの」に対して、作者と聞いてる私との間に認識のずれとか、思い入れの強弱とかが、存在してたんでしょう。私はこの「かざぐるま」から「港まち」をどうしても連想できないんですよね。二点をくっつけられないというか、私はこの句を理解できなかったんです。
要するにね。「かざぐるま」と「港まち」とには一般的に何の関係もないだろう、と。川柳みたいな短い作品で、一般的に何の関係もない二つの「もの」を並べるのは、説得力を持たせるという方向で話をするなら失敗なんじゃないかと、いうことです。
ただの修辞、飾り、装飾として持ち出すなら、もっと一般的に接点のあると思われる「もの」を持ってくればよいのではないか、と私は思った、ということです。間違ってますかね。
これが、作者の意図を説明できるだけの長さを持った作品、例えば小説とか、詩とか、ポエムとか、エッセイとか、ウェブ日記とか、川柳にしたって解説付きとか、そういうジャンルでの作品だったら問題ないんですよね。なんで「かざぐるま」と「港まち」がくっつけられてるのか、誰にでも分かるような説明ができる作品なら、私みたいな自分と遠い作品に対する理解の薄い視聴者も、説得できたんですよ。いや、説得できたからって別にいいことがあるとは思えませんけど。
ここまで、いち視聴者としての私の素直な感想というか、苦情というか、そういうのです。そもそもなんで私がこの句を理解できなかったかというところに話を戻しましょう。私が何に対しても理解の薄い視聴者であり読者であるというのはとりあえずこっちの棚にしまっておいて。なぜ私がこの句を理解できなかったかといえば、それは多分、この「港の女」の作者と、私との間には、「かざぐるま」という言葉に対する共通の背景や思い入れがなかった、ということに終始するでしょう。あるいは、「港まち」という言葉について。
これを、「テクスト、つまり「かざぐるま」とか「港まち」とかいう言葉それ自体、の外にある情報を共有していない状態」、略して「コンテクストを共有していない状態」と、呼んでもいいんでしょうかね。