『枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン4。第七段。

枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン実施中です。試験期間で忙しいので、はかどります。試験前には掃除がはかどる法則です。
※このキャンペーンは真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。同じ言葉でも違う訳文になってたり、違う言葉でも同じ言葉に訳したり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指してテキトーに訳していきます。
※手元に全集とかがありませんので、原文はネット上の方々からお借りしました。

第七段(原文)
 思はむ子を法師になしたらむこそ心ぐるしけれ。ただ、木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ。精進物のいとあしきをうち食ひ、寝ぬるをも、若きは物もゆかしからむ、女などのある所をも、などか忌みたるやうにさしのぞかずもあらむ、それをも安からず言ふ。まいて、験者などはいと苦しげなめり。困じてうちねぶれば、
「ねぶりをのみして」
などもどかる。いと所せく、いかに覚ゆらむ。
 これは昔のことなめり。今はいとやすげなり。
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第七段(現代語訳)
 もし、かわいいわが子を坊さんにしてるのなら、それはたいへん痛々しくって可哀想に思います。世間では、坊さんというものを、まるで、こう、そこらへんに落ちてる棒っ切れか何かのように思ってるから、なんだかもうほんとに気の毒です。坊さんは、精進料理とかいって肉も魚も使わないほんとに粗末なものを食べて、夜寝ることも微妙にやりづらいし(世間の人は「坊さんのくせに夜寝んの?」とか悪く思うし)。若い人なら何にでも興味を持つでしょう、女性がいる場所をなんで「女など忌まわしい」みたいに覗かないでいられるでしょう(っていうか女の子がきゃっきゃしてたら、ふつう覗くよね、若い人ならなおさらそうでしょ)。そういうのも世間の人はなんだか「坊さんのくせに穏やかでない」とか悪く言います。坊さん以上に修行の厳しい修験者とかは、それ以上に苦しそうです。あまりに修行が苦しいから、疲れて居眠りとかしてしまうと、
「居眠りばっかりして」「ってか居眠りしかしてないよねこいつ」
とか非難されます。どれほど窮屈で、どれほどつらく思ってるでしょう。坊さんも修験者も、たいへんなのです。
 でもね、こういうのって、昔の話。今の坊さんとか修験者は、めっちゃ楽そうです。

水は高きより低きに流れる、の話。

小学校の高学年の時、社会の時間のことでした。その日は地理的なことについて習っていたと思います。担任の先生が、突然「ここでひとつ、クイズです」とおっしゃいました。いわく、「川はどちらからどちらに向かって流れるでしょうか」。正解は「上から下に」あるいは「高い方から低い方に」です。ところで、私の通っていたその小学校は、日本の京都府京都市にありました。お暇な方は簡単な地図をちょっとご覧になってくださいませ。京都市というのは、東西北を山に囲まれた、北が高く南が低い盆地です。京都市の真ん中ちょっと東よりに、南北にずどーんと川が流れております。鴨川という川です。鴨川は京都市内を通り抜けて南の端っこで、西から流れてきた桂川、東から来た宇治川、南から来た木津川と合流して淀川になり、大阪にむかって流れていきます。それで、京都市の南の方でないところに住んでいる人は、「川は北から南に流れる」と思っている節があります。その日、先生のクイズにも、「北から南に」と答えたクラスメイトがけっこういたように記憶しております。
話は変わりますが、水だけでなく言葉も高いところから低いところに流れていくと、私は大学生の時に習いました。つまり、言葉の格が下がっていく、千年前は丁重語だった言葉遣いが現代では普通の言葉になり、千年前は普通の言葉だったものが現代では罵倒語になっている、というようなお話です。
例をあげましょう。「食事をする」ことを、私たち庶民は普通の言葉として「ご飯を食べる」と申しますね。けっして「飯を食う」ではありません。しかし、千年前の私たち庶民は、「ご飯」なんて「食べ」たりしませんでした。「飯を食」っていたのです。「ご飯を食べ」ていたのは貴族のみなさんです。千年経って、貴族に適用される言葉が私たち庶民に適用されるようになったのです。私たち庶民の格が上がったわけではありません、言葉の格が下がったのです。貴族に使っていた言葉を、庶民に適用するようになる、これは格落ちですね。現代では、ちょっとお上品さを欠く言葉遣いとして「飯を食う」、普通の言葉遣いとして「ご飯を食べる」、丁寧な言葉遣いとして「ご飯をいただく」及び「御膳を召しあがる」という言葉を用います。「御膳を召しあがる」はちょっと耳に馴染みないかもしれません。同じような言葉を並べたくてちょっと無理をして数十年前の言葉を使いましたが、現代では「御膳を召しあがる」はあまり使いませんよね、一般的には「お食事をなさる」でしょうか。
また、ペットの犬に何か食べさせることを、私たち庶民は普通の言葉として「ご飯をあげる」と申します。しかし、ほんの数十年前まで、私たち庶民はペットの犬に何か食べさせることについて「餌をやる」と申しておりました。千年前からずっとです。これはペットの格が上がったのだとも感じられますが、言葉の格が下がっています。「あげる」というのは言ってみれば敬語のようなものです。「上げる」ですからね。ペットに敬語を使う必要はあまり感じないでしょう、たいていの人は。つまり、ペットの格が上がっているのではなく、言葉の格が下がっているのです。
人称代名詞の件はお考えになった方も多かろうと存じます。「お前」と「貴様」の件です。「お前」は「御前(おんまえ、あるいはごぜん)」です。「お前」も「貴様」も同格及び格下の相手を呼ぶ時に用いますね。特に「貴様」は現代では罵倒語に近い扱いを受けているかと思います。なんで同格や格下の相手に用いる呼称や罵倒語に、「御」とか「前」とか「貴」とか「様」とか相手を持ち上げる言葉(文字?)が使われているのでしょうか。それは、「お前」とか「貴様」とかが、昔は高貴なる相手に対して用いる呼称だったからです。
私は最近このブログで『枕草子』について何度かお話をいたしましたが、その『枕草子』には「お前」という呼称がたびたび出てきます。『枕草子』でいう「お前」とは、中宮定子さまのことです。中宮定子さまとは、『枕草子』を書いた清少納言の上司にして、天皇の正式の奥さんの中でも一番位やら格やらの高い奥さんです。つまり当時の日本で一番位やら格やらの高い女性です。「お前」とはそういう人物に対して用いる呼称だったわけです。それが千年後の現代では同格か格下の相手に用いる呼称なわけですから、たいへんな格の下がりようです。
他にも例にはこと欠かないと思いますが、つまり、時間が経てば言葉の格は下がっていく、言葉も水と同じように高いところから低いところへ流れていくのだ、というようなお話でした。

『枕草子』を可愛く訳そうキャンペーン3、第六段。

※これは、真面目なけんきゅうではありません。ですから、品詞分解をきちんとした結果の訳文ではありません。同じ言葉でも文脈によって違う訳文になってたり、違う言葉でも同じ言葉に訳したり、というところがあると思います。昔の人は一言で言えばその感覚が分かるものでしょうが、現代人には同じ感覚がない時もあるんじゃないかなって。でも、なるべく原文にそって、大意がつかめて雰囲気が分かって、なおかつかわいさが伝わる、を目指してテキトーに訳していきます。
※原文は、方々のウェブサイトを参考にいたしました。

第六段(原文)
 同じことなれども、きき耳ことなるもの。法師のことば。男のことば。女のことば。下衆のことばには、かならず文字余りたり。
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第六段(現代語訳)
 同じことを言ってるのだけれど、言葉遣いのせいで聞いた感じ全然違う。身分とか、立場とか、いろいろ違うと、使う言葉も違うよね。お坊さんの言葉。男性の言葉。女性の言葉。庶民の言葉は、ちょっと文法があいまいで、崩れてきてる。

 ここでいう「男(おとこ)」「女(おんな)」は、庶民じゃない高貴な男性や女性のことですね。「下衆(げす)」ってのが庶民です。庶民の場合は「男(おのこ)」に「女(おなご)」でしたか、言葉遣いにはあんまり男女差がなかったのですね。で。「おのこ」は「おとこのこ」で「おなご」は「おんなのこ」とだいたい同じです。おとなでも? イエス、おとなでも。なんでおとななのに「おとこのこ」に「おんなのこ」かと言えば、成人式をしていないからです。皇族や貴族は、人生の節目節目に式をして、だんだんおとなになっていくのです。例えば、七五三とか、成人式とか。髪を伸ばし始める式をして、ちゃんと袴を穿く式をして、子ども服をやめておとな用の服を着る式をして、その時に髪をおとな用に結って、それで成人です。庶民はこういうのしませんから、何十歳になっても子どもなのですっていう扱いなのです。たとえば、「牛飼い童(うしかいわらわ)」っていう職業っていう職業がありますね。牛を飼ったり牛に車を牽かせたりという職業ですが、あんまり高貴な職業じゃなく、庶民が就く仕事です。髪や服も、よそ様に見られる職業なので主人が制服を作ってあげたりしますが、サイズは大きくても子ども服の形の制服です。あるいみ倒錯的って思っちゃう現代感覚。

月が綺麗ですねの件。

「月が綺麗ですね」っていう言い回しがありますね。遠回しな愛の告白ってやつなんですが。
今は昔、英語の授業かなんかの折に英語で書かれた西洋の小説家なんかを翻訳している若い子がおりました。若い子っていっても大学生で文学者の卵かなんかですが、気分を出すためにここはあえて若い子って言っときます。で、ですね、「アイラブユー」を「我、汝を愛す」と訳したわけです。今風に言えば「僕は君を愛しているんだ」です。ひねくれたり奇を衒ったりしないで、そのままですね。可愛いです。しかし、その若い子の訳した「我汝を愛す」を見た師匠がですね、そんな直接的な表現はあんまりよくないと言ったのです。昔の話ですから、その通りです。誰も面と向かって「我、汝を愛す」とか言いません。今だってそうですね。誰も面と向かって「僕は君を愛しているんだ」とか言いません。いや、言うかもしれませんが。でもそんなの照れるじゃないですか。いやーんです。で、師匠は「我汝を愛す」みたいな直接的な表現は好ましくない、「月が綺麗ですね」とでもしておきなさい、と言ったのです。
さてここで、この「月が綺麗ですね」ってのはどんな感じなんだろうと、この話を読んだ私は思ったのです。つまりですね。「あなたと見ているからか、今日の月はいつもより美しく見えますね」の「月が綺麗ですね」なのか。または「(ああ、君のことが好きだ、愛している、でも君のことを愛してるだなんてそんなの照れるから言えない、でもなにか言わないと場が持たない、なにか、言わないと)ああ、月が出ていますね」の「月が綺麗ですね」なのか。ということです。今これをお読みくださってる方は、別にどっちでもいいじゃんとお思いになるかもしれません。私も正直どっちでもいいと思います。文脈によるだろう、とも。
なんでこんなことが気になっているかと申しますと、ある作品の二次創作の中の愛の告白の場面において多用されるからです。そして、その使われ方が告白を受ける相手にとって難易度高すぎると思ったからです。こんな感じです。Aさんは日本の方です。Bさんは外国の方です。国際色豊かな作品なのです。BさんはAさんのことが好きで、お国柄堂々とたびたびAさんに愛を語ります。実はAさんもBさんを憎からず思っているというか、最近ではもうBさんのことが好きです。しかし、Aさんはお国柄と申しますか個人的な資質もあって、Bさんのように堂々と愛を語ることはできません。口に出してしまうと薄っぺらくなってしまうような気がいたしますとか、日本人は察する文化なのでそんなことはっきり言わないのですとか、新しい概念ですから私には使いこなせないのですとか、というか愛してるだなんて恥ずかしすぎて口にできないのですとか、理由はいろいろあるのですが、とにかく愛していると口には出しません。そしていろいろあって愛していると言わなければならないかあるいは言いたい場面が来たとき、Aさんが選択するのが、上の「月が綺麗ですね」です。続けて「今はこのぐらいでご勘弁ください」みたいなのがくっついてることもあります。Bさんは外国の方ですから、「月が綺麗ですね」って聞いたってよくわからないんじゃないかなと思いますが、Aさんの苦渋の選択なので仕方ないです。そしていろいろあってAさんもBさんを好きだから二人は両想いなのだということがきちんとBさんにも伝わり物語は大団円を迎える、というようなストーリーを、もう数えきれないほど読みました。
この場合、「月が綺麗ですね」ではなくて、「あなたと眺めていると、月がいつもより綺麗です」と言えばBさんにもAさんの意図は簡単に伝わると思うのですが、私が拝見した大抵の作品は「(好きとか言いにくいから別の言葉で表そう)月が綺麗ですね」なので、伝わりにくいような気がするのです。「月が綺麗ですね」という簡単なフレーズが「私は君を愛している」という意味であるというのは、それを知っている間柄でなければ伝わらないと思うのですよ。Bさんがそれをわからないままにしておいて二人はまとまらないエンドってのを見たことがないので、別にいいのかもしれませんが。
というわけで、この疑問とか気分とかを憶えていたらそのうち「月が綺麗ですね」って登場人物に言わせる二次創作とかしたいなっと思いますが、文才ないので面白い作品になるとは思えないのですよね。みんな、すごいな、っていうお話でした。
上に出した昔の話の、師匠っていうのが、夏目漱石です。このため、「夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳した」というそれでいいのか語弊がありそうな気もするエピソードとなって現代に伝わっております。

期末試験が延期になった件。

期末試験の季節がやってまいりました。
こちらの大学では学年暦は三月に始まります。三月一日は国民の祝日で、三月二日に一学期が始まります。入学式は二月末です。桜が咲く頃に中間試験があります。だから桜の花言葉は「中間試験」です。いやー。そして六月になったら期末試験です。梅雨が来る前に夏休みが始まります。七月と八月は夏休みです。うちの学校は八月の最終週に二学期が始まります。そして、今は期末試験の時期です。
しかしです。ただ今ここら辺りでは件の新型ウィルスが流行しているという話で、うちの学校休校になっちゃいました。いえ、来週からは再開されるんですけどね。試験が延期になると、問題作るのに余裕が生じてよろしいのですが、成績つけるのに余裕がなくなっていやです。

うろおぼえ童謡鑑賞『浜辺の歌』

今日は、童謡鑑賞の時間をとってみたいと思います。童謡鑑賞とは何かと申しますと、好きな童謡の歌詞などを読んで感じたことや思ったことを話してみるということです。解釈とか訳とかではなく、思ったことを述べる、です。タイトルに「うろおぼえ」などと入っているところからも不吉な予感がぷんぷんしますが、いい加減なのは私のキャラですということでひとつどうぞよろしくお付き合いをお願いいたします。あ、うろ覚えとかいい加減とかテキトーとかでものを語ることがお嫌いな方はご覧にならないことをお勧めいたします、ぷりーずごーばっくです。今日のは本当にひどいのです。歌の歌詞の話をするのに、歌詞間違えてたりする話です。初めに言いましたからねっ。
 
 
 
 
 
 
 
最近、年を取ったせいなのか、童謡や唱歌がまたマイブームです。童謡や唱歌というのはいわゆる大正童謡というやつで、その説明をすると三時間話すくらいでは終わらないので簡単に申し上げれば大正時代辺りに新しく子供用に健全でロマンチックな童話や童謡の類を作ろう運動が起こった時に作られたものとか、あとは女学生愛唱歌百選とか文部省唱歌に入ってるようなのとか、そういうものだとお考えくださればけっこうです。そしてそういうののうち特に好きなのを時々動画サイトなどで聞いているのです。声がきれいで歌い方の素直な感じの女性歌手が歌っているのとか、はつねみくさんの上手なのとか、が好きです。あとはピアノアレンジとかエレクトーンアレンジとかが好きです。特にお気に入りのが『浜辺の歌』です。私はリアル学生時代はあまりこの歌が好きではなく、というかあまり興味がなく、最近改めていい歌だなと思ったので、歌詞はうろ覚えでした。そしてうっかりお気に入りのピアノアレンジをみつけてしまい、歌詞を見直す機会なくうろ覚えのままエアロバイクに乗りながら歌っておりましたのです。私は自転車に乗ると歌を歌わずにはいられないというなんだかよくわからない性質が性格の中に潜んでおりまして、数年前には桜満開の霊園の中をはーるのーうらーらーのーすーみーだーがーわーなどと歌いながら大学に向かっていたものでした。春は特に気分がよかったのを憶えています。そんなわけでエアロバイクに乗りながらあーしーーたーはーーまーべーーをーさーまーーよーえーばーなどと歌っているわけです。
春休みの終わりごろのことでした。ついつい、好きが高じて、夫にうっかり『浜辺の歌』の歌詞の解説をつらつらやってしまったのです。夫も災難です、仕事から疲れて帰ってきたら春休み満喫中の妻が聞いたこともない異国の古典についてぺらぺらと講釈を垂れてくるのですから。あ、明治大正昭和初期の文学作品は外人さんにとってみれば古典文学でしょう、というわけで異国の古典と言ってみました。というか、こちらの学生は夏目漱石を古典文学って言ってました。その場では否定しておきましたが、気持ちはわかります。
さて、私が夫に語りました『浜辺の歌』鑑賞というのは、以下のような話です。その前に、一応うろ覚えだった歌詞をここに書いておきます。作詞した詩人は五十年以上前に亡くなっていますので、書いても大丈夫だと思います。もし著作権が死後七十年に延びてたらすみません、こっそり教えてください。
 

   うろおぼえ浜辺の歌
 
             作詞:林 古渓
             作曲:成田 為三
 
あした浜辺をさまよへば 昔のことぞ忍ばるる
風の音よ雲のさまよ 寄する波も櫂の色も
 
ゆうべ浜辺をもとおれば 昔の人ぞ忍ばるる
寄する波よ返す波よ 月の光も星のかげも

 
このブログは引用部分を目立たせる機能があって便利なんですが、多少融通がきかないところがありますね。いつもは長文を引用するので(枕草子とか)気づきませんでしたが、今日のは短い詩なので右側の空白が気になってしかたありません。もし今お暇がおありでしたら、こころみにウィンドウの幅を狭めてご覧になってくださいませ。ちょうどぴったりになる幅があると存じます。多分十センチくらいです。非常に狭いですね。閑話休題
さて、歌詞のお話です。この歌はですね、病気療養かなんかで都会を離れて海辺の村に仮住まいの人の心みたいな感じだとお考えください。療養なので、朝な夕なに浜辺を散歩するのです。昼間は子どもが出てくるので浜辺にはあまり近づかず、遠くの木陰かどこかから眺めてる感じです。夏の直射日光はまた病状に悪いですし。
で、朝早く、浜辺をふらふら散歩していたら、昔のことがいろいろと懐かしく思い出されるのです。例えば、健康だった学生時代のこととか、今はもうないものを懐かしく思い出すのです。朝の涼しい風が髪を梳き、足元の浜昼顔とか松の枝とかを鳴らします。見上げれば青い空、今日も晴れるのか、いい日になればいいなと考えながら雲を眺めます。朝の雲ですから、刷毛で刷いたような流れる雲です。穏やかな波が寄せては返します。波音を聞いていると、自分の肺の音なんかは気にならなくなって、ゆっくりと健康を取り戻していくような気もしてきます。朝早いですが遠くに見える桟橋では漁に出る船が準備をしていて、小さく揺れる船の腹を叩く水の音や、櫂や櫓の音も聞こえるような気がします。実際は遠すぎて多分聞こえないのですが。だんだん明るくなってくるこの時間は、目の前が開けていくのが気分がよくて、小さなものや遠くの風景もよく見えるし、かすかな音も聞こえて、昔に戻れるような気がしてくるのです。「櫂の色」の「色」とは、様子とか、存在感的な感じかと思います。
夕方、暮れ方に浜辺をふらふら散歩していると、昔仲良くしていた人のことなどが、懐かしく思い出されます。「もとおる」とは「さまよう」とだいたい同じ意味です。この人には結婚を約束した人でもあったのかもしれません。胸を病んで田舎で療養することになり、そのまま都会へ戻れるかもわからないので、結婚の約束はなかったことにしたのでしょう。この時代恋愛結婚はまだあまり一般的なことではありませんでした。健康を害した自分が身を引いて、その人にはしかるべき大人の決めたしかるべき家の人と良縁を得てもらいたい、そう思えば関係が清いままであったことはその人にとってよかったことなのだ、結婚するにあたって純潔であるか否かというのはとても重要なことなのだから、自分とそのような不純な関係になっていればその人のしかるべき縁にとって障害になったかもしれない、だからこれでよかったのだけれど、しかし自分とて結婚したいと思うほど好きであったのだから一度くらいはその頬に触れてみたかった、思えば手を握ったことも二度くらいしかない、自分は奥手であったかもしれない、相手はもしかしたら自分が手を握るのを待っていたかもしれないのに、あの日、学校の門の前で偶然行き会って二人で帰った時、自分も相手も教本や帳面の入った風呂敷包みを持っていて、でももう片方の手は空いていたのだ、ああでもそんな学校の帰りなどに手をつないで歩いているところなど誰かに見られていたら、このようになった今ではきっとそれが問題になっていただろう、これでよかったのだ、そんなことをつらつら考えていると、日が落ちてだんだん暗くなり、もう足元の砂が白いことくらいしか見えないのです。朝にはきらきら見えていた防風の松の並木も、今はただの黒い塊です。波の音だけが静かに聞こえています。寄せては返し、寄せては返し、自分のとりとめのなく堂々巡りの考えのように、波は静かに打ち寄せます。空を見上げれば、月がやわらかい光を投げ落としてきます。星も、静かに光っています。月の光も星の影も、なにもかもが別れたその人を思い出させます。「星のかげ」というのは、現代語でいうと「星の光」です。昔は姿や光のことを影といったのです。今も「人影」とかいうのは、なにも影だけ見えているわけではありません。影だけ見えたら名探偵コナンの犯人です。人の姿が見えることを人の影が見えるというのです。それと、さきほどの教本や帳面とは現代で言う教科書やノートのことです。
朝にはだんだん明るくなっていく風景に自分の気持ちも少しずつ明るくなっていき、いろんな景色が見えます。懐かしいことをいろいろ思い出しますが、いつかまたそこに戻ろうと思えます。生きていて、動いているので、生きていて動いているものが見えるのです。目も耳もクリアです。夕方にはだんだん暗くなっていく風景に自分の気持ちが寄り添ってしまいます。別れた人のことを思い出しているうちに、もう何も見えなくなって、波の音しか聞こえません。これではいけないと空を見上げても月と星しか見えなくて、また元気だった時に戻れる気はもうしません。まだ生きてはいますが、こんな状態では生きているといえるのかどうか。社会的には死んでいるのと同じですし。朝な夕なに自分の境遇と残してきたものに思いを馳せつつ、浜辺を散歩するのです。毎日毎日気分は浮き沈みしつつ、季節だけはうつり変わっていきます。
 
まぁ、こんな話でした。かなり妄想乙です。実際に喋った内容からはいくらか脚色しておりますが、すごいいきおいでぺらぺら喋ってる古典の先生を思い出していただければそれがいちばん近いかと存じます。
で、せっかく頑張って鑑賞したのでここにメモっておこうかと思って、また著作権切れてないか確認したいと思って、歌詞を検索したらたいへんでした。私は歌詞を間違って覚えていたのですよ。正しいのは、下の歌詞です。
 

   浜辺の歌
 
             作詞:林 古渓
             作曲:成田 為三
 
あした浜辺をさまよへば 昔のことぞ忍ばるる
風の音よ雲のさまよ 寄する波も貝の色も
 
ゆうべ浜辺をもとおれば 昔の人ぞ忍ばるる
寄する波よ返す波よ 月のいろも星のかげも

 
一番は「寄する波も貝の色も」でしたね。遠くの方に見えていた生命感あふれる桟橋の様子は幻でした。足元に落ちていた貝の色がきれいで感傷的になっているのです。この貝は絶対桜貝だと思います。
そして二番は「月のいろも星のかげも」でした。「光と影」って妙に現代っぽいと思ってたんです。月が黄色くやわらかい光を投げかけ、星は小さくきらきらと瞬いている、ですね。意外と心に余裕がありました。何も見えなくなってはいませんでした。よかったよかった。
……っていうことがいまさらわかったところで、上のような話を滔々としちゃったあとですよ、もう。いまから訂正するのも変な感じだし、というか多分夫は上のような話とか憶えていないだろうし、ま、いっか。学生に話したんじゃなくてよかったです。学生の中には先生の話すこと全部真面目に聞いて憶えちゃう子もいるので。かくいう私も、先生の話すこういう教科書と関係ない話とか大好きで、けっこう高確率で憶えている子だったのです。話す時にはまず前提の情報が合っているかどうか、きちんと調べなければいけないと思いました。
 
ついでに調べたことをちょっとだけ書き足しておきます。『浜辺の歌』には作られた時には三番と四番がありました。しかし昔のことなのでいろんなことが甘く、出版社の方で詩を書いた紙の一部を紛失してしまったのだそうです。詩人も量産型だったのか思い出せず(量産型でなくても思い出せないような気もしますが)、残っていた一番と二番と、それから三番の前半と四番の後半をつないだものとで、全部で三番まである曲として発売されたようです。でもあまり接続がよくなくてぎくしゃくしてたのが理由かどうか、戦後には二番までの曲としてまた発売されるようになったみたいでした。研究されてる方も多くいらしたようで、その筋では有名なお話のようです。これらのことは、「浜辺の歌」で検索すると一番上から五番目くらいまでに出てくる複数のサイトに載っていました。きっと論文もあるんだと思いますが、海外にいるのを理由に調べておりません。不勉強であいまいな話をいたしまして、恐れ入りますすみません。

「ん」の発音について。

こんにちは。柳橋(仮)先生の日本語かなんかの講座ー。の、お時間です。今日のお話は、日本語の「ん」の発音についてです。
みなさま、日本語でお話をなさるとき、何種類の「ん」を発音なさっていらっしゃいますか? と申し上げますと、大半の日本人の方は「質問の意味がわかんない」とか「何を言っているのかわからない」というような顔をなさいます。そんなん考えたこともないわーという方がほとんどかと思います。特に勉強なされた方は別ですよ。普通の方のお話です。実際、修学旅行とか研修とか留学とかでうちの大学に来る日本人の(今のところ)全員が、冒頭の質問に対して「はい?」という顔をしたのを私は見ております。なんでそんなのを見る機会があるかと申しますと、大学のある種の交流事業について、お手伝いをさせていただいているからです。それはさておき。
ちょっとご自分の口に注目しながら次の言葉を発音なさってみてくださいませ。

秋刀魚(さんま)、山頂(さんちょう)、山月記(さんげつき)。

口に注目しながら発音するとは、こう、口の形や舌の位置、唇の上下が合うか合わないか、口蓋(口の中の上部分、熱いものをストローで飲むとべろべろになる部分です、痛い話注意)と舌の様子がどうなっているか、あと喉の辺りとかを意識しながら発音するということです。もう一度、特に「ん」の発音をする時に、口のそこら辺に注目しながら、次の言葉を発音なさってみてくださいませ。

端末(たんまつ)、ガンダム(がんだむ)、マンガ(まんが)。

全部口の辺りの様子が違いましたでしょう。秋刀魚とか端末とかの「ん」は、唇がいったん完全に閉じてしまいますね。山頂とかガンダムとかの「ん」は、舌の先端が前歯の付け根にくっついた時にちょうどその音を出しているでしょう。山月記とかマンガとかの「ん」は、唇は開けっ放しでなんとなく喉を締めて発音しているような感じです。いかがですか? わかりにくい? では、普通にその単語を音読しようとしながら「ん」を発音したところでいったん口の動きを止めてみてくださいませ。

サンバ(さんば)、読んだ(よんだ)、端午(たんご)。

いかがですか。口の辺りが上の説明のような感じになって静止しますでしょう? サン、バ。読ん、だ。たん、ご。
日本語の「ん」の発音は、主にこの三種類にわけることができます。厳密に言えばもっと細かく分かれて、九種類とか聞いたこともありますが、多分私のような素人には聴いてもわからない難しい説明になることであろうと思われますので、今日のところは省略いたします。日本語の「ん」の発音は、主に三種類。です。しかし、ひらがなやカタカナの表記において、この発音の違いを書き分けることは、日本語ではいたしません。全部等しく「ん」です。ローマ字になるとちょっと変わって、秋刀魚の「ん」はmを使って表記することもあります。機会がありましたらJRの駅名表示をご覧ください。「丹波橋駅」のローマ字表記は「Tambabashi」だったかと思います。また、日本語を母語とする人にとって、これらの「ん」の発音には差がないのです。全部ひとしなみに「ん」と認識している、ということです。日本語を母語としない人の多分多くは、何種類もの「ん」みたいな発音や表記を使い分けているので、違う「ん」みたいな発音で話されると何言ってんのかよくわかんない、ですが日本語を母語とする人は「ん」みたいな発音は全部まとめて「ん」ですからなんか変な「ん」で来られても一応何言ってるかわかる、というような話です。ちょっと難しいですが、たとえば、「ん」部分で唇を閉じないで秋刀魚と発音してみましょう。さ、ん、ま。一応秋刀魚らしく聞こえますね。「ん」部分で唇を完全に閉じて山月記と発音してみましょう。さ、m、げ、つ、き。山月記らしく聞こえますね。他の多分多くの言語ではこういうのないそうですよ。
日本語の発音が簡単だ、という評価は、この表記に対して発音の揺れがわりとある、というところからきていると思います。つまり、どんな発音をしても、それなりに聞き取ってもらえる、ということです。
しかし、日本語の習得は日本語を母語としない人にとって超簡単であるとも超難しいとも評価されます。私個人としましては、初球はわりと簡単だけれど中級の辺りですごい高い壁がある、と思っております。つまり、初めは簡単、発音簡単、多少変でも大丈夫、でも発音で終わらないで書き始めたり語彙を増やしたりあと敬語の勉強を始めたりするととてつもなく難しくなる、ということです。ま、そんなの、どんな言語でも同じだとも思いますがね。